優嵐歳時記

俳句と季語。日本の自然と四季が生み出した美しい言葉を。


公園で最も大きな池である剛ノ池の東側の林の中に中が空洞になったヤマモモの古木があります。喜春橋から「こもれびの小径」の道標にしたがって歩いていくと、よくわかるように周りが囲まれています。

古木の幹まわりは2mを超えますが、高さは3mほど。葉は無く、生きているとしたら不思議です。幹の中は完全に空洞になっており、そこから空が仰げます。「青天を仰ぐ木」と名付けられています。
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寒中
花以外で目についたのはピラカンサでした。バラ科トキワサンザシ属の数種類をまとめてこのように呼びます。果実が美しく特別な手入れをしなくても丈夫でよく育つため生垣などに広く普及しています。

ヨーロッパ南部からアジア南西部が原産地で日本には明治以降に導入されました。つまり築城当時は日本には存在しなかった植物です。

真っ赤な果実をぎっしりつけているのが目につきました。これはトキワサンザシで最もよく栽培されているものです。
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寒晴
二つの櫓の間に展望場所が設けられおり、そこにあがって左手を望むと巽櫓の彼方に明石海峡大橋が見えました。橋の主要部分は手前のビルに遮られていますが、主塔は二本とも見えました。

明石城が築城されたころは明石海峡がここから一目で見渡せたはずです。さらに目の前は西国街道であり、陸上、海上双方の主要交通路を一望でき、戦略上いかに重要であったか想像できます。
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山茶花
明石城では松がいずれもきれいに剪定されています。背の高さが相応に抑えられているのもその剪定の技でしょうか。

寒中の花といえばサザンカで、濃いピンクの八重ものがあちこちに咲いていました。寒椿系のシシガシラだと思われます。播磨地域ではもっともよく見られるサザンカの品種です。
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ジャケット
天守台に登っていく土段の途中でイタリアングレイハウンドに会いました。起源はローマ時代、ルネサンス期の貴族の宮廷でもっとも発達しました。日本には江戸時代に入り、古代からほとんどその姿は変わっていません。

遊び好きで好奇心旺盛で走り回ることが大好きです。一方、その体格からか寒さとストレスに非常に弱く、飼い主の方はこの時期は上着が無いと外に出せないと言われていました。
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明石城の正面には太鼓門と呼ばれる門がありました。西国街道に面しており、現在の公園の入り口にもなっています。当時は太鼓門橋と呼ばれる長さ十一間(約20m)、幅三間(約5.5m)の木製の欄干橋がかかっていました。

正面に「定ノ門」と呼ばれる高麗門があり、そこから枡形虎口となって、その先は「能ノ門」と呼ばれる櫓門がありました。「能ノ門」には、時刻を告げる大太鼓が備え付けられ、ふたつをあわせて太鼓門と呼んだといいます。

今、そこを真っすぐ北へ入った先には兜を象った日時計が置かれています。標準時子午線の通る町明石を象徴するモニュメントです。
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明石城の高石垣は東西の幅が380m、三の丸からの高さが約20m(帯郭までが約5m、そこから約15m)の規模を誇ります。

幕府が当初築いた部分は主に花崗岩、明石藩がのちに補強修復した部分は主に凝灰岩(竜山石)が使われていて、石垣の時期差を見ることができます。所々に石を割った鏨の跡が残っています。
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山茶花
白いサザンカが坤櫓の下に咲いていました。坤(ひつじさる)は西南の方角を表します。もう一つの巽櫓の巽(たつみ)は東南を意味します。

築城時に三重櫓は四つあったといいますから、残る二つの櫓の名前は西北の乾(いぬい)、東北の艮(うしとら)だったのでしょうか。

坤櫓は伏見城から移築されています。天守台に近く最も大きな櫓です。明石城には天守が築かれなかったので、天守の代わりとして使われたようです。
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寒晴
この日は雲ひとつない快晴でした。トビが数多く飛んでいるのが目につきました。明石城の築城は元和5年(1619)に始まり、翌年9月には本丸に四つの三重櫓が完成しました。

現在もこのうち巽櫓・坤櫓が残っており、日本に12基しか現存していない三重櫓のうちのふたつで、国の重要文化財に指定されています
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この日は少し風がありましたが快晴でした。寒に入ると寒さは厳しくなりますが、明らかに十二月中とは日差しの明るさが違ってきているのがわかります。日差しが最も薄く感じられるのは十二月中旬頃です。

夫婦楠と名付けられたクスノキがありました。幹の途中が枝でつながっています。自然にこうなったものなのか、意図的なものかはわかりませんが、うまくできているなあと感じました。
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