優嵐歳時記

俳句と季語。日本の自然と四季が生み出した美しい言葉を。

□◆□…優嵐歳時記(84)…□◆□

   夕焼けて発電風車の大き影   優嵐

九州では、特に大隈半島、薩摩半島、島原半島などで、風力発電用の
風車をたくさん見ました。ウインドファームとでもいうのでしょうか。
海の側で、常に一定の風が得られるところが多いのでしょう。ほとんど
は小高い丘の上に立っているのですが、近づいてみるとその大きさに
驚きます。巨大なオブジェという感じです。

夕陽が沈むときに西の空が赤く染まる現象を夕焼けといい、四季を
問わず見られます。万葉のころからすでに詠まれていますが、夏の
季語として定着したのは近代になってからです。夕焼けは高気圧の
接近を物語り、特に夏の夕焼けには壮大なものが多く、印象も強く
なることから、夏の季語として定着したものと思われます。

□◆□…優嵐歳時記(83)…□◆□


      今日の季語【射干】


   国東の塔を囲んで射干咲けり   優嵐


国東半島は周防灘と伊予灘の間に丸く突き出した形の半島で、平安時代
には六郷満山と呼ばれる仏教文化が花開いた土地です。国東塔は独自の
様式を持つ石塔で、半島各地に残っています。

射干(しゃが)は人里近くの山地の日陰に群がって咲くアヤメ科の
常緑多年草です。アヤメの仲間としては小ぶりですが、紫がかった白地
に紫と黄色の斑紋があり、清楚な趣のある花です。

□◆□…優嵐歳時記(82)…□◆□

   茅花流しや球磨川は翡翠色   優嵐

球磨川は九州山地に端を発し、熊本県南部を流れ八代平野から八代海
に注ぎます。最上川、富士川ととも日本三大急流に数えられ、球磨川
下りで有名です。先日、九州をオートバイで走ったとき、雨模様の
球磨川沿いを八代市から人吉市まで走りました。もう下流域であった
のにもかかわらず、水と山の緑が大変美しかったのが印象に残って
います。

初夏のころに吹く、湿気を含んだ雨を伴うことの多い南風を「ながし」
といいます。茅花(つばな)、つまりちがや白いわたをつけるころに
吹く風の意味で「茅花流し(つばなながし)」と詠んでいます。

□◆□…優嵐歳時記(81)…□◆□

   甘藷焼酎つくりし郷は海に向く   優嵐

薩摩半島の西の端は野間半島といいます。東シナ海に面したリアス式
の海岸が広がっています。果ての青い海がとても美しいところです。
ここの笠沙町黒瀬地区の男たちはかつて「黒瀬杜氏」として、九州一円
の甘藷焼酎(いもしょうちゅう)造りを一手に引き受けていました。
明治時代に3人の男たちが焼酎醸造の技術を伝え、耕地が少ないこの
地で一気に広がったのです。

焼酎は日本独特の蒸留酒で、米、麦、粟、黍、トウモロコシ、サツマイモ
などを発酵させて造ります。安くてアルコール度が高く暑気払いによい
ことから、夏の季語になっています。鹿児島の甘藷焼酎、沖縄の泡盛
(米が原料)などが有名です。

□◆□…優嵐歳時記(80)…□◆□

   初夏の海をはるかに特攻機   優嵐

初夏と書いて「しょか」とも「はつなつ」とも読みます。ここでは、
「はつなつ」と読んでください。木々の緑に、そこを吹く風に、
日の光にいかにもはつらつとした命の息吹を感じる季節です。

鹿児島では、知覧で特攻平和記念館を訪ねました。昭和20年(1945年)、
太平洋戦争の末期、追い詰められた日本軍は、爆弾を積んだ飛行機
もろとも敵艦船に体当たり攻撃をするという特攻作戦に踏み切って
いました。知覧をはじめ鹿屋など鹿児島にはいくつか特攻基地が
作られ、そこから1036人が沖縄戦へと飛び立って行きました。
知覧を飛び立ち、開門岳の彼方に消えた彼らは、二度と戻ることは
ありませんでした。

特攻作戦が最も盛んにおこなわれたのが、ちょうど桜の咲く4月から
敗戦直前の7月半ばまでです。日に日に濃くなる緑を見ながら、彼らは
どのように過ごしたのでしょうか。明日は出撃という命令を受けた夜、
声を殺して泣いていた隊員も多かったといいます。しかし、その一方、
泣いた人ほど最後は、さっぱりと、毅然として、機上の人になった
そうです。

まだ60年もたっていない、ついこの間のことなのですね。

□◆□…優嵐歳時記(79)…□◆□


      今日の季語【五月】


   原爆の母子像を見る聖五月   優嵐


カトリックでは五月を「マリアの月」または「聖母月」と呼びます。
そこから俳句でも「聖五月」として使われるようになってきました。

今回の九州一周ツーリングで長崎を訪れたときに、原爆資料館に
立ち寄りました。展示されている資料の中に、赤ん坊に乳を与え
ながら呆然とした表情で救護を待つ若い母親の写真がありました。
母子とも爆風のためにあちこちに傷を負っています。赤ちゃんには
すでに母乳を吸う力も無く10日後には亡くなったそうです。

この母子の像を見て、何か聖母子像を思い出しました。戸外は新緑が
美しく、爽快な風が吹く五月。灼熱に焼かれた爆心地も緑がまぶしい
季節を迎えています。

□◆□…優嵐歳時記(78)…□◆□

   夏来る中へ開聞岳の立つ   優嵐

今日は子どもの日ですが、「立夏」でもあります。暦の上では今日
から夏になります。季語も今日からは夏のものをご紹介していきたい
と思います。九州滞在も6日目。今日はようやく青空に恵まれました。
晴れると一気に夏の気配が濃い南九州です。海は青く澄み、ツーリング
を満喫しながら、薩摩半島南部を一周しました

開聞岳は鹿児島県薩摩半島の南端にあり、秀麗な円錐形の火山で、
別名薩摩富士と呼ばれています。深田久弥の100名山にも選ばれており
南薩摩の象徴といえるでしょう。本家の富士山よりはほっそりとした
印象で、北の桜島が男性的な荒々しさを表すとしたら、開聞岳は女性的
な優美さを象徴しているかもしれません。

□◆□…優嵐歳時記(77)…□◆□

   少年が母と摘むなり一番茶   優嵐

今日も宮崎県の山間部を走ってきました。お天気は雨が降ったり
やんだりでしたが、雨に洗われた新緑がいっそう鮮やかさを増して
います。清流と山の緑を楽しみながらオートバイを走らせました。
このあたりはお茶を栽培しているところも多いのか、茶畑をみかけ
ました。山間の茶畑で、小学校低学年と思われるイガグリ頭の男の子
が二人、お母さんといっしょにお茶を摘んでいました。5月1日が
八十八夜でしたね。

茶はツバキ科の常緑低木で、鎌倉時代に臨済宗の開祖栄西によって
禅宗とともに中国から伝えられました。茶の若葉を採取して飲料に
した起源は、漢の時代にまで遡ると言われています。「夏も近づく
八十八夜」と歌われるように、茶摘の最盛期は八十八夜から二週間
ほどです。摘み始めの二週間に摘んだものを一番茶といい、最も良質
とされています。ひと月ほどあけて二番茶、さらに八月ごろに三番茶
を摘み取り、四番茶あたりまで摘むようです。

□◆□…優嵐歳時記(76)…□◆□

    山藤の下走り抜け椎葉へと   優嵐

椎葉村へ行きました。平家落人伝説と椎葉神楽で有名な宮崎県の秘境
です。ここへ至る道は二十一世紀の今もまさに秘境を感じさせる険しさ
でした。一車線の急勾配、急カーブの峠を越え、さらに断崖の道を
くねくねと縫って走り、ようやくたどり着くことができます。今なお
多くの古い伝承が保存されているのも、このような土地であったからか、
と思いました。

ヤマフジはマメ科の落葉の木本性ツル植物で、山野に自生しており、
蔓は左巻きです。園芸種として栽培されているフジの蔓は右巻きです。
この時期、山路を通ると、高い木に絡みついて薄紫色の花を揺らして
いる姿をあちこちで見ることができます。

□◆□…優嵐歳時記(75)…□◆□

    行者杉幹に手をあて四月尽   優嵐

昨日からオートバイで九州を巡っています。福岡県の小石原村で行者杉
という杉の巨木群を見ることができました。最も高い霊験杉は53m、
最も太い大王杉は幹周りが8.7mあります。ここは修験道の伝統がある
英彦山にほど近く、かつて峰入りする行者たちが植えたものが300年から
500年の年月を経てこのように成長したものです。

「四月尽」とは行く春を惜しむ心情があらわされた季語です。陽暦のも
のですから、歴史は浅いと考えられますが、四月は年度始めにあたり、
身辺がなにかとあわただしいうちにばたばたと過ぎ去っていきます。
そんな中で一刻も留まることのない時の流れに一瞬思いをはせるとき
が確かにあります。

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