優嵐歳時記

俳句と季語。日本の自然と四季が生み出した美しい言葉を。

□◆□…優嵐歳時記(2364)…□◆□

  木枯しの吹くほど光明るくて   優嵐

お昼すぎまで強い風が吹いていました。瀬戸内海に面する姫路では木枯しが吹くころになると、空は明るく青く冴え渡るようになります。日本海側の空とは正反対なのでしょう。このあたりでは冬の初めごろはからりと晴れ上がった晴天の日が続き、雪が降るのは冬も半ばを過ぎてからです。

森を歩いていると、風が吹くたびに檜の枯葉が細かく舞い落ちてきます。山道一面を淡い狐色の檜の落葉が覆っています。木の葉が散る音を雨に見立てた「木の葉雨」や「木の葉時雨」という季語がありますが、この檜の散るさまはまさしく雨のようでした。

松葉も散っており、常緑の針葉樹もこのように葉を交代させているのです。木枯しはまず針葉樹の古い葉を払い落として行きました。森を風が通り抜けていくたびに色づいた葉が揺れ、日差しが揺れ、きらきらと華やかです。春先の強さを増していく光の明るさとは一味違う、瀬戸内の初冬の森ならではの明るさです。


<急げ>
一歩踏み出した足の先にヤマカガシがいた
しゅるしゅるっと逃げ去る素早さがなく
のっそりと重そうだ

仲間の多くはもう冬眠に入っているだろう
ねぐらに向かうところなのか
ヤマカガシは仲間と固まって冬眠するという
急がなくちゃ

そんなにゆっくりだと
鳶に見つかったらひとたまりもないよ


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□◆□…優嵐歳時記(2363)…□◆□

  帰り花ありしところに陽の温み   優嵐

IMG_1100ソメイヨシノが花をつけていました。初冬、桜やつつじなどが暖かい日に季節外れの花を咲かせているのを見ることがあります。これを「帰り花」と言います。「忘れ花」「狂い花」という言い方もありますが、ニュアンスに違いがあり、「帰り花」と詠んでいる句がほとんどです。時節はずれの花であり、背後に盛りの花の面影を漂わせながらぽつぽつと咲いているのは、はかなげで趣があります。

今日も暖かでした。午前中は少し風の音がしていましたが、木枯しというほどの冷たさはなく、午後は小春日和になりました。部屋がいっそうがらがらになり、なんだか旅館に来ているようです。

収納についてひとつ気づいたことがあります。タンス、引き出し、押入れ、なんでもいいですが、収納場所というのは必ず空きスペースをとっておくべきだということです。びっちり一杯は収納ではありません。臨時に何かを入れられる場所が常にある、それが収納ではないでしょうか。

なぜモノを溜め込んでしまうのか、の背後には、なぜ食べ過ぎてしまうのかと似た理由があるように思います。人間はずっと欠乏の中で生きてきました。いつ何時モノが無くなるかもしれない、もし生存に不可欠なものが手に入らなかったら、待っているのは死…。そういう意識で生きてきたのです。

このモノに溢れた世の中で、そんなことはない、と理屈ではわかっていても捨てられないのは、もっと強烈な生存本能のようなものが邪魔をするからでしょう。執着というのは「肉体を生存させる」ということと深く関係しているように思います。

もしかしたら私たちは執着を断つ訓練をするために、あえて強烈な執着を生み出す”肉体”というものを持っているのかもしれない、と思いました。究極のウエイトトレーニング、意識にとっての最大の負荷が肉体であり、それと折り合いをつけていければ、かなり執着をコントロールできるようになる…。


<準備完了>
三日ぶりに広場のアベマキのところに行ったら
ずいぶん黄葉が進んでいた
隣のコナラはまだ緑のまま

毎年アベマキが先に装いをこらし
輝きを脱ぎ捨ててゆく

「そろそろいくよ」
「そうだね」
「おつかれさま」
「じゃ、あちらで」

アベマキの隣り合った葉っぱたちは
そう語り合っているだろう


□◆□…優嵐歳時記(2362)…□◆□

  冬来る野山色増す今朝の雨   優嵐

立冬の日曜、朝は細かな雨が降っていました。その後お天気は回復し、自然歩道へ行ってきました。姫路は暖かなところですので、本格的な紅葉はこれから。彩の初冬です。

第三次断捨離を始めました。自分自身ではこれを昨年「捨てろ教」と呼んで実行していました。今回の中心は新品、いただきもの、思い出の品の類です。断捨離のブログにも書いてありましたが、これがなかなか曲者です。

まず、いただきものですが、当然、新品です。捨てるにはモッタイナイ、いつか使うかもしれない、そういう甘い考えで取り置いたものが知らず知らずの内にじわじわとスペースを侵食していきます。いると思って買ったものでも、実際にはほとんど使わなかったものもあります。

リズ・ダベンポートは、『机の上はいらないモノが95%』の中で「過去6ヶ月にこれを使ったか、この先6ヶ月のうちにこれを使うか」を基準に捨てるかどうかを決めなさいと勧めています。私はさらに単純な基準でモノの処分を考えようとしています。「無いと困るか」です。

必要だと思っていろいろ持っていますが、それは必要だと思っているだけで、本当は必要ないものが大半です。さらに「思い出の品」というものもやっかいです。写真とか記念品とかいろいろありますが、思い出は頭の中にあるだけで十分でしょう。

思い出の品をあらためて取り出して見ることなどありません。そのとき楽しかった、それでいいんじゃないでしょうか。その人にとっての「思い出の品」は、他の人にとってはゴミに過ぎません。捨てるべく準備していると、執着を断つというのはこういうことなんだな、と思いました。

その都度決断して、そのときそのときにケリをつけていく、それが執着を断つということです。捨てられない人はそれができないんじゃないか、と思いました。確かに簡単なことではありません。私も去年あれだけどっさり捨てながら、まだ捨てられずにいた不要物が今回ゴミ袋六つに詰まっています。

これは何も物品だけのことではないと思いました。関係とか何らかの思いとか、そういうものもその都度整理していく必要があるのです。もう終わった関係、ある一時期は密なつながりがあったけれど、今はもう何もないという関係は、どこかで断捨離していいのではないでしょうか。


<けりをつける>
その日その日を精いっぱい生きたいという言葉をよく聞く
ではそれは具体的にどうすることなのか

それが「けりをつける」ということだと悟った
「けりをつける」とは俳句の最後に「けり」をつけ
それで句を切って終りにすることから来ている

けりをつけるためには決断しなければならない
いま・ここ、で
それをしないことは楽だが実は逃げている

精いっぱい生きるとは
その都度目の前のものに真摯に応対し
先送りせずにけりをつけていくことだ


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□◆□…優嵐歳時記(2361)…□◆□ 

  横顔の肖像描く冬隣  優嵐

今日は立冬です。「冬隣」は秋の季語、秋も末、冬の隣にいるということです。「○隣」はどの季節にもありますが、最もよく詠まれるのは「冬隣」と「春隣」です。秋の最終日の昨日、姫路は晴天で風も無くおだやかなお天気でした。午前中、スケッチブックを持って近所に出かけました。最近、すっかり絵に夢中です。

午後から家で坂井泉水さんの肖像を描いてみることにしました。月命日と誕生の「日」、これ、いいかもしれません。人の顔を描くのはやはり面白いですから。できあがったのがこちらです。


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デビューアルバム『Good-bye My Loneliness』のCDジャケット写真を参考にしました。そして、彼女の肖像は描くのはなかなかチャレンジングだ、と思いました。なぜなら、普通のいわゆるポートレイトという写真がほとんど無いからです。

正面に近いカメラ目線のくっきりはっきり写真がポートレイトの常道です。こういう写真が絵を描く参考とするには一番適しています。ところが、そういう写真が彼女の場合は皆無であり、横顔、うつむき加減、ソフトフォーカスといったものがほとんどです。ごく稀にカメラ目線のものがありますが、そうすると今度はZARDらしさが消えてしまいます。


<時間の中で>
人は時間の流れの中で生きている
時間は不思議な存在で
それを意識していないときが
一番楽しい

時間の流れを忘れ
自己の存在を忘れ
何か別の場所にあるとき
いま・ここにあるとき

時間の中にいながら時間の外へ出ている時
そのとき人は本来の自分にかえる


□◆□…優嵐歳時記(2360)…□◆□ 

  烏瓜いつも夕陽の色を持つ   優嵐

烏瓜(からすうり)はウリ科の多年草です。夏の夕暮れ時に白い花を咲かせ、秋になると長卵形の長さ5〜7cmほどの実を結びます。実は秋が深まるにつれ緑色からしだいに朱色に色づいていきます。緑が少なくなる中でその色はいっそう鮮やかに目をひきます。明日は立冬です。

今日の坂井泉水さんの誕生の「日」には、WANDSに詞を提供した『Brand New Love』を取り上げます。WANDSのオリジナルバージョンの冒頭では彼女が英語でセリフを話していますが、こちらではその部分はありません。男性ボーカルへの提供曲であるため、詞は男性の視点になっており、クロスジェンダーパフォーマンスを楽しむことができます。

Brand New Love



8枚目のオリジナル・アルバム『永遠』(99.2.17)に収録されており、ZARDの楽曲の中では最もロック感覚に溢れた一曲ではないでしょうか。坂井泉水さんのボーカルの特徴が浮かび上がってきます。パワフルであり、声量も歌唱力も申し分なく、それでいて、決して重く暑苦しくなることがありません。

常に軽く、湧き出つつ流れる清水のような声とでも言えばいいのか。その意味で彼女に「泉水」という芸名を与えた人は誰だったのかと知りたくなります。彼女の本質を実に的確に表現したネーミングだからです。

この歌の中で私が彼女の作詞家としてのうまさを感じるのは、「愛は野に咲くバラの花 芽が出ればほんの少しの 水だけで育つのに」というフレーズです。詩でも詞でも、キーポイントのひとつは比喩表現です。見事な比喩があるとその詞の魅力は輝きます。

ただ、ありきたりのもの、使い古された表現だと陳腐になって詞の魅力を落としてしまいます。逆に飛躍しすぎるとイメージの共有ができず、伝えたいことが十分伝わりません。比喩は、この相反するもののバランスを取っていかなければならないのです。

前半部の「愛は野に咲くバラの花」は、誰もが納得できる比喩でしょう。しかし、次にどんな言葉がくるかでこれが活かされるかどうかが決まります。一般にバラから連想されるのは華やかさ、美しさ、それと同時に棘です。棘を愛の痛みに例えた詩は数多くあり、もう使い古されていると言っていいでしょう。そこで、坂井泉水さんはこの次に「芽が出ればほんの少しの 水だけで育つのに」という言葉を持ってきています。

バラの芽という新たなイメージ、さらにそこへ「ほんの少しの水」という言葉を重ね、きっかけをつかんだ愛が成長していく姿を伝えようとしています。こういう比喩は使えそうでなかなか使えません。バラと棘、バラと香りなどという連想が定着しているため、別の角度からバラをとらえることが難しいのです。

書いてあるものを読めば、なんということもなさそうに見えます。しかし、最初からこの言葉を発想できる人はそんなに無いと思います。坂井泉水さんの詞は「日常にあふれる感情を難しい言葉を使わずに表現する」、「普通の人なら見過ごしてしまうような言葉を使って人々の共感を得る」と言われます。誰でも書けそうでいながら、誰にも書けない、そういう詞なのです。

□◆□…優嵐歳時記(2359)…□◆□

  身に入むや昭和の日付の新聞紙  優嵐

身に入む(みにしむ)とは、痛いほど骨身に透って感じられるというのが本来の意味です。それが転じて、しみじみと感じられる「あわれ」となりました。そして、秋風に触発され、秋の「あわれ」と、人の世の「あわれ」を重ねて人の世と自然の寂寥感がしみじみと感じられる、との意味が定着しました。

今日も断捨離について書きます。この言葉を提唱されたカウンセラーのやましたひでこさんのブログ 断捨離通信 を読みました。これがおもしろくて、モノに圧迫され片づけるに片づけられない悩みを抱えた人々がこんなにいるのか、と驚きます。

大笑いしながら読んだあと、ふと引き出しを開けてみる気になりました。もうすっかり「だんしゃりは済んでるぜ」と思っている今日この頃です。日常の必要物品程度しか入れていないはず、でした。ところが、驚くべき現実に出会ったのです。

引き出しから歯ブラシが15本、亀の子タワシが8個出てきました。いったいなぜ? これらは新品です。歯ブラシはなんだかんだでどこかからいただいたものでした。亀の子タワシは買ったことを忘れてまた買い足してこういうことになっていました。笑い事ではありません。モノは増殖するとブログに書いてありましたが、まさにそのとおりでした。

さらに片づけたつもりのシンクの下の奥から出てきた箱の中に昭和の新聞にくるまれたお皿がありました。これをくるんだのは日付からして私ではありません。母ですらないかもしれません。恐ろしい現実です。モノは人より長生きするとブログに書いてありました。

モノが無い時代なら、次にいつ手に入るかわからないということがありえます。しかし、今はうっかりしていると何十年もモノが押入れやシンクの下に潜み、その怨念に他のモノが引き寄せられるという時代なのだと痛感しました。


<人間だもの>
住まいは自分自身の象徴なのだという
ぎちぎちにものを詰め込んでいるのは
あきらかに食べすぎ

モノで溢れかえる家は
住まいのメタボリックシンドローム
ダイエットをしようダイエットを

ところがこれが難しい
メタボなら食べなければいいというけれど
食べずにはいられない理由をそれぞれが抱えている
モノが捨てられないのもこれと同じ

食べなきゃいい
買わなきゃいい
捨てればいい

言葉で簡単に言えることほど
実行するのは難しい
なぜか
それはあなたが人間だから


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□◆□…優嵐歳時記(2358)…□◆□

  拾いゆく紅葉かつ散る一枚を   優嵐

紅葉するとはやくも木々の葉は散り始めます。それを惜しむ気持ちがこの季語には含まれています。森を歩くようになり、かなりの木々の名前は木肌や葉からわかるようになりました。

しかし、名前がいまひとつ特定できないものに出会うこともあります。このときも大きめの紅葉した葉がまとまって散っているところに行き会いました。柿の葉のようにも見えますが、森の中ですし、さて、何の葉だろうかと拾って帰りました。

こういうときはウェブで樹木図鑑を検索し、名前を探します。ほとんどの場合これでわかるのですが、この日は数種類を調べましたが、どうもはっきりしませんでした。自然の樹木は必ずしも図鑑どおりではなく、それぞれに葉や木肌に差があり、特定するのが難しいものも珍しくないようです。

赤を中心として、そこに微妙に黄色が混じり合いなんともいえない美しい色合いでした。しかし、家に持って帰って調べているうちにも色はあせてゆき、翌日になるとすっかり枯葉の色になっていました。まるで夕焼けが消えていくようです。美しくはかない、また、はかないからこそ美しいのでしょう。


<人生犬>
プレゼント付き!---人生大逆転!?
この文字を私は
プレゼント付き!---人生(犬)逆転!?
ととっさに認識した
大が○で囲まれていたのが悪かった

人生犬逆転?
人生犬って何?
介助犬のようなもの?

犬逆転という意味?
犬逆転って何?
新しいゲーム? キャラクター?

ほんのわずかの間に疑問符が頭の中を回る
もう一度よくよく見たら「人生大逆転」
人生ってそんなもの


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□◆□…優嵐歳時記(2357)…□◆□ 

  笛の音のかすかに雑木紅葉かな   優嵐

紅葉は秋を代表する季語です。単に紅葉というだけでなく、桜紅葉、櫨紅葉、銀杏黄葉とそれぞれの木の名前を入れて詠む場合もあります。雑木紅葉とは、特にこれということではなく、雑木林の紅葉全体をさしています。

昨日、断捨離について書きました。去年の自分の経験を思い起こし、それについて今日は書きたいと思います。昨年の秋、突然モノの大整理を始めたのは、自分の中で興味の対象が変わってきていることに気づいたからでした。

私はそれまでアウトドアでする遊びが好きで、ハイキングやトレッキングはもちろん、カヤック、自転車ツーリング、スキー(アルペンもバックカントリーも)、スキンダイビング、フリークライミング、キャンピング、オートバイツーリングなどさまざまな活動をしてきました。

当然これらには多くの道具が必要です。それらを興味の赴くままに買っては倉庫代わりの部屋に積み上げ、悦に入っていました。ところが、昨秋、これらのアウトドアの活動になぜかあまり熱が入らなくなってきていることに気がつきました。

そこで、少し処分しようと片づけ始めたところ、その膨大な量にまず驚きました。手袋だけで20種類以上あったのです。アウトドア用具のメーカーが勧める言葉のままに買い、それを「自然に親しんでいる」と思い込んでいました。コマーシャリズムに乗せられ、モノを買い集めて喜んでいただけだったのです。

どうしてこんなにいろいろなものが欲しかったのだろう、と考えていくと、そこに自分の執着があったのだな、と今なら思います。執着というか、逃げていたというべきか。とにかく手近なものからオークションで処分し始めると、この物置代わりの部屋がどんどん片付いていき、とうとうほぼ空っぽになりました。

モノに逃げ、モノに縛られていたのだと思います。なぜ捨てられないのかを見ていくと、自分が何に執着しているのかがわかる、といいます。目の前にあったものなのに、驚いてしまうのは、自分が全く見えていなかったからです。


<流れ>
いのちとは何か
いのちとは流れである

執着とは何か
執着とは流れをとどめようとすることである

いのちは細胞でも遺伝子でもない
あらゆるもののあいだをとどまることなく
流れてゆく流れそのもの

流れゆくものを流れのままに
流れつづけさせよ


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□◆□…優嵐歳時記(2356)…□◆□ 

  晩秋の小島へ光降り注ぐ   優嵐

十一月になり、秋の末が近づいてきました。今年ももうあと二ヶ月、なんとこの歳月の流れの速さでしょう。このところ、ぐずついたお天気でしたが、午後から晴れてきました。

断捨離(だんしゃり)という言葉を耳にされたことがあるでしょうか? 断捨離とはモノを捨てることです。そして、それによって執着を捨てることを可能にします。この言葉を友人から教えてもらったのですが、今、注目されているのだそうです。

へー、私はもうやったよ、と思いました。断捨離という言葉は初めてききましたが、実践はしていたのです。去年の秋冬にヤフーオークションで持ち物大量処分をやりました。これが第一次断捨離。先日、掃除に目覚め、さらに物品を処分して第二次断捨離。モノを捨てると意識変容が起こる、と断捨離を勧める心理療法家の方は話されています。これは確かです。

モノがなくなると部屋がすっきりします。せいせいします。部屋が広々としただけでなく、それ以上に自分の気持ちが広々とします。今の時代、モノを持つことが贅沢ではなく、広々とした空間を持つことが一番の贅沢ではないか、と思います。


<所有>
何かを持つと
自分がそれを所有すると同時に
自分の一部が所有されることになる

そのことに気づいているだろうか
家、車、貴金属、こだわりの品々
名声、地位、賞賛の数々
何らかの関係

所有されずに所有することはできない
それはコインの裏表


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□◆□…優嵐歳時記(2355)…□◆□ 

  指先をインクに汚す秋の暮   優嵐

「秋の暮」は秋の夕暮れどきを意味します。日本人の美意識に深く根ざした季語であり、寂しさ、あわれさを本意にします。清少納言は『枕草子』で、「秋は夕ぐれ」といいました。秋のしみじみとした情緒は夕暮れにこそあるということです。

先日から万年筆とクーピーペンシルで絵を描くことに熱中しています。使っている万年筆は二本とも中字(M)のものです。デジカメで写真を撮って、ブログにアップしていますが、元の絵の大きさによって縮小率が変わるため、印象が変わります。いろいろな太さのペン先を揃えたいと思うようになりました。

その前に、ふでDEまんねん(セーラー)を試してみようと考えました。ペン先の形が特殊で、筆記の角度を変えることによって線の太さが変えられるという触れ込みの万年筆です。『楽しい万年筆画入門』で推奨されています。これを土曜日に手に入れました。

さっそくコンバーターでプラチナカーボンブラックを入れて描いてみましたが、感想は「うーん」。値段が千円ほどの万年筆なので、ペン先の滑りがいまひとつ。カーボンブラックは滑らかさを一段アップさせてくれるインクですから、これでこういう書き味ということは…。

また、線の太さを変えるために持つ角度を変えるにはそれなりのコツがいります。やはり万年筆自体を変えて描く方がいいと思いました。これはこれで面白い書き味があることは確かですが。まあ、なんでも試してみないと実際にどうかというのはわかりませんから、次へ進むステップとして良かったと思います。


<何処より>
自分が何かをしたい、とか
何かをしたくない、とか思うのは
自分の意志だろうか

自分の気持ちというものを
人は自分で操っていると思っているけれど
実はそうではないような気がする

アモールの矢に射られて
恋に落ちるといわれるように
人は自分の心を自分で操ることはできない

心の中に生れる望みや願いや決意
これほど不思議なものがあるだろうか


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