優嵐歳時記

俳句と季語。日本の自然と四季が生み出した美しい言葉を。

□◆□…優嵐歳時記(2287)…□◆□

  ひらひらと黄を翻し秋の蝶   優嵐

自然歩道でキチョウに会いました。三つの個体が並んでとまっており、そばまで行ったとたんぱあっと舞い上がって華やかでした。あの蝶独特の動きというのはいいものですね。アゲハ類の悠然とした飛び方もいいですが、キチョウの細やかな翅の動きもいいです。

キチョウはアフリカ中部以南、インドから東南アジア、そしてオーストラリアと世界的にも広く分布し、地域によって多様な亜種があります。日本では、秋田・岩手県以南の本州、四国、九州、南西諸島に分布しています。春に活発に飛びまわる姿が印象的ですが、成虫は年に5、6回発生し、越冬もします。


<盆の月>
今夜は旧暦七月の満月
輝く月に生命は存在しない
月は大昔
地球に火星大の天体が衝突して誕生した

それは恐ろしい災厄だったが
月というかけがえのない存在を得たことで
地球は生命の星となることができた

地球の自転軸の安定も潮汐も
月がもたらす恵み
地球の影の部分を引き受けて
月は夜空に浮かんでいるのかもしれない


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□◆□…優嵐歳時記(2286)…□◆□

  新涼の朝の川へと網を打つ   優嵐

残暑は続いていますが、少し涼しさを覚えるようになってきました。23日は二十四節気の「処暑」でした。いくら暑いといってももう峠を越える頃です。風に清新な冷気が加わっているのが感じられ、早稲の田が色づいてきました。

「涼し」は夏の季語ですが、「新涼」は秋に入ってから感じる涼気を指します。まぎらわしいといえばそうなのですが、この微妙なところを楽しむのが俳句の面白さです。日本人の言葉に対する繊細な感覚を味わえます。


<処暑>
立秋から十五日
毎年少しずつ差はあるものの
季節は確実に巡る
地軸の傾きと日本列島の位置がもたらす
繊細な季節の変化

地球という星はありふれたものと
かつては考えられていたけれど
宇宙物理学が発展するほど
ちょっとありえないほどの偶然が重複した
特異な惑星だとわかってきている

なんでもなくすぎていく日常と
思っているのは私たちだけで
コンビニのお弁当やケータイのメールさえ
奇跡の十乗を持ってしても
足りないものかもしれない


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□◆□…優嵐歳時記(2285)…□◆□

  秋扇盛んに揺れるホームかな   優嵐

お盆を過ぎたのに厳しい残暑で、朝は「土用の朝曇」のような状態になっています。「朝曇」とは、暑い日照りの続く頃、蒸発していた水蒸気が朝の気温低下で冷やされ、靄がかかって曇ったような空に見えることです。晩夏の季語です。この時期になってもこういう状態とは、いかに残暑が厳しいかですね。

アートセラピーのために大阪へ行きました。朝のホームでは電車を待つ人たちが扇子を使っており、その様子が漣のようでした。七月から「観る」というテーマでワークを行っています。このところ、いかに自分が観ていないか、についてようやく少し気づけるようになってきました。

それには、注意深さが足りず、見ていながら見えていない状態であるという場合、自分の思い込みのために見る目が曇っている場合、その二つが複合している場合があります。「観る」というのは、簡単なようでいて、実はかなり深い技法といえるかもしれません。

今日のひとつめのワークでは、桜の葉を一枚画用紙大に拡大してパステルで描きました。私はクレパスで描いていたのですが、パステルが望ましいとのこと。パステルを使った場合、描き手は指や掌を使ってパステルを擦るという描法をおこないます。皮膚を使い、直接紙に触れることによって、粘土を扱っているような効果が絵を描きながら得られ、それがアートセラピーにとっては大きな意味があるのです。

一枚の葉を拡大して描き、さらにその葉から感じたエネルギーを葉のまわりに描いていきます。これによって、目に見えないことを感じ取り「観る」ことを試みます。「観る」ことには、目に見えないことを感じ取ることがポイントになるのです。

ふたつめのワークでは、背景を赤・黄・青のグラデーションに塗り分けた紙に花と根のついた植物を描きました。ここではその植物が生長したように下から上へと描いていきます。これによって植物の生命力(背景・環境)を感じ取ります。種であったそれが根を伸ばし、茎を伸ばし、やがて花を咲かせるに至ったその時間や過程を想像しながら描きました。

今、眼の前に見えているものを注意深く観ることによって、その存在の今の状態、ここに至る過程への洞察を深めることが可能になります。観ることは理解することです。


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□◆□…優嵐歳時記(2284)…□◆□

  亀ゆらり残る暑さへ浮かび来る   優嵐

午後五時半になっても外気温が36度ありました。このところ夜になっても気温がなかなか下がらず真夏以上の酷暑ですね。

そういえば、ウグイスの囀りがいつの間にかやんでいます。蝉の鳴声にかき消されて気づくのが遅れましたが、最後に聞いたのはいつだったでしょうか。八月に入ってからも確かに鳴いていた記憶があります。立秋の前後には囀りをやめていたかもしれません。

「鶯音を入る」という季語があります。繁殖期を過ぎたウグイスが囀りをやめ、地鳴きだけになることを指しています。夏の季語ですから、やはり立秋の頃が囀りを聞いた最後だったのでしょう。


<注意深くあること>
無意識的でない生き方とは
常に注意深くあることだと気づいた
日常の多くのことを
私たちは自動操縦のロボットに任せて生きている

ついさっきの自分の行動を
もう思い出せないということはないか
多分初めてそれをおこなったときは
新鮮で集中していたはずだ

いつの間にかそれを無意識の
ベルトコンベアーの上に載せている
顔を洗うような行動だけではない
車の運転といった命にかかわるような行動すら
いつか無意識に任せてしまっている

そんなことにいちいち
かかずらわってはいられない
そう思うからいろいろなことを「ながら」でやる
ながらでやる限り注意力は殺がれる

いちいちかかずらわっていられないと
思いながらやる「別のこと」とは何だろう
そんなに急いでたくさんのことを同時に
せずにいられないというのはなぜだろう

なぜそれほど駆り立てられてしまうのか
そして
いつもいつも自動操縦のロボットに任せてしまい
結局生きていくことの果実を味わうことも
そのロボットに乗っ取られていないか

宝物は常に降り注いでいる
拒否しているのは自分の方なのだ


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□◆□…優嵐歳時記(2283)…□◆□

  秋口の蟻が引きおる蝶の翅   優嵐

残暑が厳しく感じられるひとつの理由として、雨が降らないことがあるように思います。お盆の前に台風が接近しましたが、あまり雨らしい雨は降りませんでした。高温が続いて積乱雲が発達しているにもかかわらず、全く夕立がなく、夏の間に一度も雷鳴を聞きませんでした。

八月も下旬に入り、夕暮れ時が随分早くなっているのを実感します。夏休みに入ってから、毎日夕方になると子ども会の「早くお家に帰りましょう」という放送があります。初めのころはまだ日が高かったのが、今では夕方という感じになっています。そろそろ夏休みの宿題の追い込み時期でしょう。


<波を鎮める>
わくわくすることをやりなさい、と
スピリチュアル系の書物によく書いてある
わくわくすることがあなたのやるべきことだ、と

わくわくすることは確かに楽しい
しかし
わくわくだけで人生は終わらない
山が高いほど谷も深くなる

わくわくが大きければ大きいほど
それに付随してやってくる落ち込みも大きいだろう
わくわくしかないというのは
日向しかない風景のようなものだ
光が強ければ影は濃い

目指すべきなのは
波をフラットにすることではないか
高揚感と落ち込みに振り回されるのではなく
ものごとの中央にたち
静穏な心ですべてのものを見る

波が静かになった心の水面には
自分のほんとうの姿が映るだろう


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□◆□…優嵐歳時記(2282)…□◆□ 

  虫の音のいつか始まる夜となり   優嵐

真昼の外気温は38度まであがっていました。真夏よりも気温が高く発熱状態です。日中は風がよく通る部屋にいますが、それでも熱気で部屋中のものが熱くなっているのがわかります。水道から出るのはお湯ですし、畳も蒲団もみんな熱気を帯びています。

これほど気温があがっていても森の木陰は涼しく感じます。日差しが遮られていること、風が通ることが大きいのでしょう。緑がどれだけ気温を下げるかということを身体で知るこのごろです。都市緑化がヒートアイランド現象を和らげるというのは確かだろうと思います。

それでも日が沈み、あたりが闇に包まれると虫の声が聞こえてくるようになりました。厳しい残暑が続いていても季節の進みは確実です。


<飛行機>
人が空を飛びたいと思っている飛行機だとしたら
賢者というのはすでに空を飛んだ飛行機だ

空を飛んだ飛行機ができるのは
空を飛べるという事実を示すことと
滑走路まで誘導することだ

滑走路に出たら
それぞれの飛行機は自分で速度を上げ
翼に風を受けなければならない
激しい風の圧力に抗して走り続ける

あるときふっと翼が揚力を得て
飛行機は空へと舞い上がる
そこは想像もしなかった世界
どれほど速く走っても
地面から離れなければ見えない世界

一度飛び立った飛行機は思う
なぜこんなに簡単なことが
今までできなかったんだろうかと


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□◆□…優嵐歳時記(2281)…□◆□ 

  潮騒の如しよ秋の蝉の声   優嵐

森へ行くと、蝉の主役はホウシゼミになっています。固まって棲息しているところがあるのか、鳴声が特に大きくなる場所があります。アブラゼミやミンミンゼミももちろんまだたくさん鳴いています。自然歩道を歩いていると肩にぶつかってくるくらいですから、かなりの数がいるものと思われます。

<たとえ話>
本を読むのが好きで
読んだ本の感想を記録している
時々読み返してみると
何度も同じことが出てくるのに気づく

ビジネスや発想法の本なら
月並みな考え方を離れよ
新しい視点でものを見なさい
常識を疑え

精神世界の本なら
すべてはひとつである
あなたの内側に向かえ
外側にある慰めや成功は幻想だ

大昔から言われてきたことは同じだ
けれど人間は未だにそれがわからない

常識を疑えといわれながら常識に従ってしまい
外側は幻想といわれながら幻想を追いかける

そして賢者の言葉を読み返すたびに
そうだなあと思い
自分もできそうな気がしてくる

けれどできない
根本的に何かがずれている
そのずれを言葉で示すことは
どのような賢者にもできない
だから究極のことはたとえ話でしか語られない


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□◆□…優嵐歳時記(2280)…□◆□

  秋暑し湧き立つ雲を仰ぎけり  優嵐

厳しい残暑になっています。お昼ごろ、出かけた先で甲子園の中継をやっていました。この炎天下、すり鉢状の球場の底でのゲームですから、どれだけの暑さだろうか、と思います。子どもの頃何度か高校野球の観戦に連れて行ってもらったことがあります。かちわり氷の美味しさは、あそこならでは、でしょう。

姫路市の中心部から北へ向かって車を走らせていると、山の上に入道雲が連なっていました。真夏のようです。早朝や夜には少し秋らしさを感じるようになってきましたが、真昼に秋を感じるには処暑を過ぎて、やはり九月に入ってからかと思います。


<精進>
仏教の修行僧が食べる料理を精進料理という

自分が生きていくために
別の存在の命を食べる
それが人間の食事だとしたら

宗教とは関係なくても
料理はすべて精進料理であるべきなのだ
素材に何を使うかというのではなく

よりよく生きるための糧として
命を感謝していただく
それが精進料理という意味だと思う


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□◆□…優嵐歳時記(2279)…□◆□

  盆花となりて整う花の丈   優嵐

お盆の仏壇や精霊棚に供える花を「盆花」といいます。もともとは野山へ出かけて採ってくるものとされていました。今では庭の花や生花店で求めた花を供花とされる場合がほとんどでしょう。ミゾハギ、オミナエシ、ヤマユリ、シキミ、ホオズキ、ナデシコ、キキョウなど、さまざまな秋草の花が供えられます。故人がお好きだった花を特に買い求められる場合もあるかもしれません。

慰霊や供養のためになぜ人は花を供えるのでしょうか。ネアンデルタール人の遺跡から、彼らがすでに亡くなった人にお花を供えていたという事実がわかっています。故人を葬ったところから花粉の化石が採集されているそうです。死者を弔う、というのが人間存在としての意識の始まりであり、おそらく宗教儀礼の始まりでもあるのでしょう。


<他人>
いとこたちと話に興じながら
墓までの道を歩いた
全員が墓の主の血を分け合っている

けれどおそらくいとこたちの子供同士は
もう街ですれ違っても
お互いどこの誰かはわからないだろう

「兄弟は他人の始まり」
そこには一部の真実がある
それは同時に
「すべての人は他人ではない」
ということにもつながる

見知らぬ他人と思っているのは
その個人の数十年の記憶だけ


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□◆□…優嵐歳時記(2278)…□◆□

  時おりは風受け塩辛蜻蛉飛ぶ   優嵐

お盆は年に一度決まった親族が顔をあわせる数少ない機会です。顔をあわせてさて何か特別なことを話すわけではありません。それぞれ生活基盤は別のところにあり、祖父母や親兄弟がどこかでつながっているということだけがそこで顔をあわせる理由です。取りとめもない話をして、ときには昔話をきいて、お墓参りをして、それが親族というものだな、と感じます。


<無駄>
愚痴というものはほとんどの場合
「誰かが何かをしてくれない」
という話に終始する

それは誰かが
自分の考えているようには
何かをしてくれないということだ

なぜ誰かがあなたの思うように
行動しなければならないのだろう
よく考えてみるといい

あなたは誰かの思うように
常に行動しているだろうか
そんなはずはない

それならば誰かがあなたの
思うように行動しないことを
とがめだてたところで無駄だ


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