優嵐歳時記

俳句と季語。日本の自然と四季が生み出した美しい言葉を。

□◆□…優嵐歳時記(2188)…□◆□

  山路いま新樹の光に溢れおり   優嵐

三日ぶりに山に行ってみたら、フジはすっかり終わっていました。日差しがとても強くなり、空気の中にはっきり夏を感じられるようになりました。木陰が慕わしく少し歩くと汗をかきます。初夏の勢いよく茂り始めた樹木を「新樹」といいます。生命エネルギーに溢れ、そのみずみずしさ、美しさは独特のものです。

<アバター>
記憶の貯蔵庫は脳細胞ではない
意識の存在場所でもない
それらは肉体の外にあるのだ
肉体はそれほど多くのことはしていない
記憶や意識のデバイスに過ぎない

現世におけるそのつたないモデルは
クラウドコンピューティングだ
見た目にはパソコンの上ですべてが動いているように見える
けれど情報もソフトもすべて別の場所にある

もし意識が身体の中にあるならば
肉体を動かすことはもっと思いのままであっていい
イメージしたとおりに身体が動いていい
しかしそうはならない

肉体は遠隔操作なのだ
アバターと言っていいかもしれない
肉体が目覚めると操り手は遠隔操作を開始する

ずっと操作するには疲れる
だから毎夜睡眠によってそれを中断する
生れ落ちたばかりの赤ん坊が
ほとんど眠っているのはそのせいだ

肉体を離れた場所に意識のウェブがあって
私たちは適宜それをダウンロードしている
直観やインスピレーションが
どこかからやってくるように感じられるのはそのせいだ

肉体が消滅したとき
パソコンのひとつが閉じられる
けれど遠隔操作にあたっていた操り手は変わらない
機械の中の幽霊などではないのだ


今日の名言:君の一生は曲がり角だらけだ。


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□◆□…優嵐歳時記(2187)…□◆□

  はつ夏の風ビル街を通り抜け   優嵐

アートセラピーのため、土曜日は堂島近くのホテルに滞在しました。四月から六月までの三ヶ月間はコミュニケーションをテーマにワークをおこないます。今日は二人で一組になり、透明水彩を使って自由に絵を描きました。その際どちらか一方がリーダー、もう一方がサポーターという役割分担をします。

リーダーが主導権を握り、何をどのように描いていくかを決めて進めていきます。サポーターは合いの手を入れていく感じでリーダーの筆に応じて描いていきます。絵を通してリーダーとは何をする人か、サポーターの役割とは何かを感じるのです。

これはいつもそうですが、描き終わった後の感想を聞くと、それぞれ同じようなことをしていてもひとりとして同じことを経験してはいません。世界を経験するのはあくまで自分の視点、自分の主観を通してなのだということがよくわかります。

ここでいうリーダーとは必ずしも大組織を束ねるような役割と解釈する必要はありません。人が何らかの役割を担うとき、その役割に関してはその人がリーダーだと言えます。リーダーの仕事は決定することです。自分で決め、その決定に責任を持つということかもしれません。

サポーターはリーダーを支えるのが役割です。自分を持ちつつ自分を主張しない。優れたサポーターとは、受けに回ることができ、そのためには自分をきちんと確立している必要があります。

コミュニケーションについて、依存や判断といったことがワークの中で話題になりました。リーダーであるということは、依存しないということです。依存とは自分で判断せず、決定を他者にあずけてしまうことです。意外にも多くの人がその罠にはまっており、誰かの判断の後についていこうとします。自分で責任をとることから逃れたいと思うからかもしれません。

「これをしてもいいですか?」という言葉を相談やセラピーではよく聞きます。しかし、それは時と場合、人によって変化するものです。どちらにせよ自分で決めてそれを選ぶということが大事です。それが自分自身を確立するということだからです。

判断は、生起した出来事にレッテルを貼らずにはいられないという人間の性質と関係しており、大きな苦しみの原因です。本来物事にいいも悪いもありません。いいか悪いかに執着するから苦しみが生まれるのです。世界が主観によって成立しているなら、自身の視点を変えていくことによってしか「判断」という磔から自由になる道はありません。


今日の名言:苦難の時代は忘れよ。だが、苦難が君に教えたことは決して忘れるな。


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□◆□…優嵐歳時記(2186)…□◆□

  永遠の今を宿して聖五月   優嵐

五月は爽快感に満ちた月です。新緑がまばゆく風は心地よく、すべてのものが光り輝いて見えます。五月という軽やかな語感、さらにカトリックでこの月を「マリアの月」「聖母月」と呼ぶところから、「聖五月」という季語が生まれました。

日曜日にアートセラピーに参加するため、ZARDのフィルムコンサート終了後、そのまま大阪に残りました。Screen Harmony は2007年から2009年までの追悼コンサートの映像を中心に構成されています。スクリーンのみですが、バンドの臨場感をよく伝える素晴らしいものだったと思います。

坂井泉水さんの映像も新たに編集され、歌っているところだけでなく、海外でのPV撮影時の映像や、普段の仕事中の一コマなども入れて楽しいものになっていました。

私自身は彼女がレコーディングしている場面の映像が好きですね。ほんの少しですがスタッフとのやりとりなども入っており、坂井泉水さんが言葉のちょっとしたニュアンスにまで細かく神経を配り、楽曲を制作していたことがわかります。それに、レコーディングのときが一番楽しそうに見えるのです。作品を作ることに熱中している様子が伝わってきました。





<幸福>
ヘッドフォンをつけてマイクに向かっている
そのときの彼女が一番幸せそうだ
音楽に集中している
ミューズと彼女だけの世界

もちろん楽しいことは他にもあっただろう
つらいことや苦しいことも

けれど
そのために生まれてきたと思えるほどのものに出会い
何もかも忘れてそこに没入できた
これほどの幸せがあるだろうか

□◆□…優嵐歳時記(2185)…□◆□ 

  風を生み光を生みて若葉山   優嵐

周囲の山々の緑が落ち着いてきたと同時に緑の勢いが増しているのを感じます。木の葉が完全に広がり、若葉から青葉へと姿を変えようとしています。風が吹くとそれらの葉がさわさわと鳴り、遠目にもひるがえっている様子がよく見え、夏の訪れを実感させてくれます。

今日はZARDのフィルムコンサートで大阪の堂島リバーフォーラムへ行きます。blogのサイドバーに貼り付けているblogパーツがそれですね。去年は日本武道館まで出かけました。武道館でも坂井泉水さん自身はフィルムで登場でしたから、感覚的にはそれほど変わらないのではないか、と思っています。

今年の命日の5月27日には、東京渋谷で同じフィルムコンサートがおこなわれ、献花台も設置されるようです。これまでの追悼コンサートでは彼女の楽屋も整えられていたといいます。スタッフの方の心づくしですね。


<記憶>
晩御飯を食べようとお箸を取り上げた瞬間
頼まれていたことを思い出した
危ないところだった
すっかり忘れていた

こういうとき人間の記憶は不思議だ
出来事に何のつながりもない
きっかけさえそこにはない
それなのに
どこかに紛れ込んでいた記憶が
閃光のようによみがえる

人間はすべて記憶しているという
忘れているというのは
実は思い出せないだけ


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□◆□…優嵐歳時記(2184)…□◆□

  群がって咲いて寂しきしゃがの花   優嵐

シャガという花を初めて意識したのは、東海自然歩道をキャンプしながら歩いたときのことでした。竹林や針葉樹林の縁のちょっと影になったような場所に咲いています。アヤメ科の花であることは花の形からすぐにわかりました。花の姿は清楚で美しいのですが、地味で目立たない花という印象です。

それでもシャガが咲き始めるのを見ると、何か今年も会えたとうれしい気分になります。梅や桜といった主役級の花ではありませんが、季節の移り変わりを告げてくれる花のひとつです。フジはそろそろ花の時期を終えようとしており、代わって山で目だつ紫色はキリの花です。里ではアイリスやイチハツ、シャクヤクが咲き始めています。


<ベストを尽くして>
こちらでは物事は簡単には進まないようになってるの
スポーツの試合のようなものね

あなたがもし出場する試合全部に勝ったら
あなたはもうそのレベルのプレーヤーじゃないということになるでしょう?
ウインブルドンの決勝で戦えるプレーヤーが
ジュニアの大会に出たいと思う?

困難なのはそれが丁度いいから
それが一番必要なことだから
それがあなたのレベルをあげる

試合が終わったらシャワーを浴びてゆっくり休めるわ
困難な場面を乗り切って素晴らしいプレーをすれば
誰よりもあなた自身が満たされる
それはどこだって同じよ


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□◆□…優嵐歳時記(2183)…□◆□ 

  若楓雨にひときわ明るくて   優嵐

楓の若葉を特に季語で「若楓」といいます。季語になっているほどですから、やはりその美しさは格別です。五月に入って落葉広葉樹は一気に葉を茂らせています。増位山梅林周辺の楓は開いた空間である梅林に向かって大きく枝を差し伸べるように広げています。葉が茂ることによって枝がその重みで撓み、太陽光線を効率よく受けとれるような位置に葉が段上にならんでいます。

木にとって葉は光合成をするための生命線です。桜も花のときの楚々とした雰囲気とは異なって勢いよく葉を広げていますし、梅もくしゃっとしていた若葉が今は広がり、その下には小さな梅の実が並んでいます。これから梅雨の時期にかけてこの実がしだいに丸く太っていきます。


<幼子>
勝つことを考えすぎてはならない
勝ちたいと思う気持ちが墓穴を掘る
欲が足を絡めとる

幼子のような人にこそ天国は近い
幼子にはあれこれ余計な慮りがないから
無心であれ

幼子になるのは簡単ではない
幼子のままでいいなら
生まれて成長して大人になる必要はない

成長しなおかつ幼子でいること
そのふたつを両立させること
天秤のいずれにも傾きを与えず
その中間地点に立つこと

幼子として生まれ
成長過程で得たものをたずさえつつ
もう一度幼子に戻る


今日の名言:敵に矢を射る場合は、あなたも相手の射程距離にあるということを忘れるな。


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□◆□…優嵐歳時記(2182)…□◆□

  竹の子の志いま空にあり   優嵐

とても不思議な夢を見ていました。私は外の宇宙と内側の宇宙の中間地点に立っています。この宇宙は文字通り外は私の意識の外の世界、内側は私の内的世界です。どちらも同じように広大で、その両側の宇宙が私のところでちょうど砂時計のくびれのように収束しているのです。

私はそこに立っている一粒の砂のようであり、前後に固定された格子のようなものがあって、どちらへも行けないようになっています。自分の中というか、周囲を通って時間とか何かもろもろのものが流れている感覚があります。けれどそれを別の場所から見ている自分もいます。

この世に生きているというのはこういうことなんだな、と別世界の私が格子の中にいる自分を見ています。前にも後にも行けず、ただ砂時計のくびれの部分で外側を眺めながら立っています。内側を見ていないというところがポイントですね。ただ、別の視点にいる私はその砂時計状の空間が外と内のように見えながら実はつながっているということも理解しています。

この空間をどのように説明すればいいのでしょうか。三次元の立体構造ではありえない形状です。砂時計のトップとボトムが最終的にはつながっているような構造物をイメージしていただくといいのですが。どこか一ヶ所でつながっているというのではなく、拡大していった先がすべて最終的につながっているような空間です。

外の世界が広大であるのと同時に、内的世界も同じように広大です。そのすべてがいっしょになって全宇宙なんだとわかりました。こういうとき、言葉というのは不自由だなと痛感しました。自分が見たイメージをうまく伝えられる言葉が見つからないのです。同時に、これは言葉では伝えきれないものなんだろうな、とも思いました。


<感謝の祈り>
いちばん身近で簡単な感謝の祈りを発見した
「いただきます」と「ごちそうさま」
日々の食事の前後に手を合わせ
この言葉を唱える

子どもの頃教えられたけれどいつしか忘れていた
「いただきます」と誰に向かって言うのか

食卓に登ってくれたすべての命に
命を食べものとして整えてくださった人すべてに
そしてその大きなつながりに
さらに
食べることを可能にしている自身の命に

今は私の命だけれど
これは私が生み出したものでも維持しているものでもない
全身の生体機能が滞りなく動いているのは
この宇宙の自然の力によるものだ
与えられ生かされている

それらすべてに感謝の祈りを
それが「いただきます」と「ごちそうさま」


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□◆□…優嵐歳時記(2181)…□◆□

  山降りて平戸つつじの色に会う   優嵐

五月に入って、街路や庭先のヒラドツツジが鮮やかな花を咲かせています。刈り込みによく耐え、萌芽力が強いため、街路樹として街のあちこちを彩っています。寒さにはやや弱いそうですから、北ではどの辺りまで植えられているのでしょうか? 大輪の花が、強くなり始めた日差しを受けて咲いている様子は華やかです。

名前のヒラドは長崎県の平戸にちなみます。ここに植えられていたケラマツツジ、日本産のモチツツジ、キシツツジなどとの間で自然交雑が生じ、その変異品種から選抜されたのがヒラドツツジです。約300種あるそうです。花の色は、白、桃、赤、赤紫とあり、色の濃淡もいろいろです。


<若楓>
雨が降り出した森
それでも楓の若葉の明るさは格別
その下にたたずむと
大きく広がった柔らかな緑色の
シェードの下に入ったようだ


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□◆□…優嵐歳時記(2180)…□◆□

  藤房に残りし雨の雫かな   優嵐

周囲の山々はフジの花盛りです。季語の分類では晩春に入っていますが、花の時期は四月下旬から五月にかけてです。蔓性の落葉高木で、高木をよじ登り高い鞘から長い花穂がぶら下がります。

自然の状態では、林内を出ない蔓には花が咲かないため、近くで花の咲く様子を観察するのは難しいのですが、藤棚で咲かせているものを見ると、実にうまい構造になっているものだと感心してしまいます。花は五十個から百個にも及び、香りに誘われて虫がやってきます。

日本固有種であり、古来から人々の目をひいて『万葉集』ですでに歌に詠まれています。遠くからは紫の藤の房が波打つように見えるところから「藤波」という言葉も生まれ、『万葉集』でフジを詠んだ二十七首のうち、十八首までが藤波と表現しています。

  藤波の花は盛りになりにけり 平城(なら)の京(みやこ)を思ほすや君  (大伴四綱)


<森>
落葉広葉樹の森の影が濃くなった
ほぼ毎日同じ森を歩いていると
森が生きていることがよくわかる

一本一本の木が生きているのと同時に
森全体がひとつのリズムを持ち
大きな流れを体現するように変化していく

芽吹いた小楢も阿部槙も若葉を広げ
すっかり頭上を覆っている
椎の花が咲き始めた


今日の名言:あなたらしくあれ!そうすれば世界は豊かで美しい。


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□◆□…優嵐歳時記(2179)…□◆□

  山なみはぐるり曙つつじ咲く   優嵐

土曜日、兵庫県中部にある笠形山(939m)へ登ってきました。神河町のグリーンエコー笠形のコテージ横からのコースをとりました。昨秋、同じコースで登ったとき、途中でトレッキングシューズの底がはがれるアクシデントがあり断念したコースに再チャレンジです。

グリーンエコー笠形のある谷には無数の鯉のぼりが渡されています。その下をくぐって登山口へ。落葉広葉樹林の中を30分ほど登ると三合目のベンチに出ます。ここから道はなだらかになり、下で扁妙の滝になる流れに沿って歩いていきました。秋に来た時はカエデやコナラの色づいたさまが印象に残りましたが、今日はそれらがすべてみずみずしい若葉に変わっています。

やがて谷筋から尾根に向かうヒノキの植林帯の急登に入っていきます。ここはどこも同じように見え、赤いロープの印がなければ道に迷いそうです。七合目あたりにはコバノミツバツツジやアセビが咲いています。登山道は尾根で市川町からのルートと合流し、北に向かいます。再び急登を登りきると一等三角点のある頂上に出ました。

笠形山は播磨富士との別名があり、山頂からは360度の展望が楽しめます。神河町、市川町、多可町の集落が山間の川筋にそって点々と並ぶ姿が見え、見通しのいい日には四国の山々まで見ることができます。

この時期の山頂の注目はアケボノツツジです。夜明けの空の色を思わせる花が山頂のすぐそこに咲いています。アケボノツツジは四国や南紀の山深い場所に咲いているものがほとんどで、これほど身近で見ることができる場所はほかにないとのことです。


<頂の花>
人生は長いのか短いのか
今自分は人生の何合目を登っているのか
山頂に夜明けの色の花は咲いているだろうか
登る一歩一歩が曙の色を育てている
そう信じて登りたい


今日の名言:自己嫌悪がないという事は、あなたが自己を熱愛することのない証拠である。


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