優嵐歳時記

俳句と季語。日本の自然と四季が生み出した美しい言葉を。

□◆□…優嵐歳時記(2178)…□◆□

  清流の音こだまして新緑に   優嵐

連休明けの株式市場は大荒れで始まりました。現在の株価は三月初旬とほぼ同じです。その間上昇していましたから、二ヶ月間の上昇分をわずか2日で帳消しにするという急落ぶりです。GW明けは毎年荒れることが多く、今年はギリシャ危機に加え、木曜日のNY市場で誤発注があったらしく、取引時間中に9%以上も下落するという考えられない事態になりました。

現在の機関投資家の取引は、アルゴリズム取引です。アルゴリズム取引とは、コンピューターシステムが株価や出来高などに応じて、自動的に株式売買注文のタイミングや数量を決めて注文を繰り返す超高速システムトレーディングを意味します。

1000分の1秒単位で売買を決定していくというのですから、人間の判断ではとても追いつけません。この売買の対象となるのは、取引量の多い大型株や指数先物などになります。瞬時に値がつき売買が成立するほどの流動性がなければならないからです。

東京証券取引所が年明けから稼働させた新しい売買システム「arrowhead(アローヘッド)」も世界最高水準の超高速処理をうたい、こうしたアルゴリズム取引に対応しています。ところがこうした超高速取引ではいったん大規模な誤発注などが起きてしまうと、それを規制している当局の制御が効かず、市場が暴走してしまいます。それが露わになったのが今回の急落でした。

2008年の投資銀行を葬り去った金融危機も、コンピュータでリスクを計算した金融工学の手法を研ぎ澄ませて行った末に、市場がパニックに陥って流動性が枯渇してしまった結果でした。部分最適を集めてみると全体的には不合理だったということです。人工知能がどれほど進んでもこういうことは避けられないでしょう。

人工知能は与えられたデータを元に計算していくもので、論理の飛躍には対応できません。人間のおかす過ちや心理的パニックには対応しきれず、それどころかそれを増幅させてしまう危険が大きいのです。そして、相場とは、株だろうが通貨だろうが結局は人間の「心理」を売買しているものなのです。

だったらこれからどうしたらいいのか、ということですが、そんなことは誰にもわからないというのが正直なところだと思います。世界はもともとカオスなのだと考えているべきで、秩序の方が幻でしょう。政治家も経済アナリストも本当は何もわからないし、わかっているだろうと期待する方にも無理があるのです。

<光>
昼過ぎに雨があがった
初夏の長い午後の散歩
森の地面も若葉も
しっとりと濡れている

頂はまだ薄もやの中だった
それでも梅林まで来ると
明るい日差しが
小さな梅の実を光らせている

水分をたっぷり含んだ空気を通して
降り注ぐ太陽光線の放射状の広がりが
後光のように杉の大樹を彩る
荘厳な山上のひととき


今日の名言:君が火傷しない火を消そうとするな。


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□◆□…優嵐歳時記(2177)…□◆□

  小さきは小さき風を鯉のぼり   優嵐

ゴールデンウイークが終り、近所の道路に通勤の車の列が戻ってきました。あと二日休みをとって来週明けまでお休みという方もあるでしょうね。かつてはそういう休みの取り方をしてあちこちへ出かけました。しかし、いつでも自由に休めるとなると、そういうときには休まないものです。

ほんの数日行かなかっただけですが、増位山の山頂近くのコバノミツバツツジはすべて花を終えていました。替わってモチツツジが咲いています。この花、どこか必ず虫に食べられていて、もとの姿のままというのを見たことはほとんどありません。

四月の終わりごろから鯉のぼりが空を泳ぐようになっています。マンションの窓にも小さな鯉のぼり。旧暦の五月五日は一ヶ月以上先ですので、今からが鯉のぼりのシーズンといっておかしくないでしょう。「こいのぼり」の歌にはよく知られている二曲があります。








ところで、今日聴いてみて気がついたのですが、最初の「こいのぼり」にはお父さんしか出てきません。二番の歌詞があったのかしら、とふと気になって調べてみると、ありました。

1番
やねよりたかいこいのぼり
おおきいまごいはおとうさん
ちいさいひごいはこどもたち
おもしろそうにおよいでる

2番
やねよりたかい こいのぼり
おおきいひごいは おかあさん
ちいさいまごいは こどもたち
おもしろそうに およいでる

なんと、吹流しや風車まで歌詞になっていました。3番扱いなのでしょうか。

みどりのかぜに さそわれて
ひらひらはためく ふきながし
くるくるまわる かざぐるま
おもしろそうに およいでる


今日の名言:戦いにおいて、一人が千人に打ち勝つこともある。しかし自分自身に打ち勝つものこそ、もっとも偉大な勝利者である。


□◆□…優嵐歳時記(2176)…□◆□

  森の道永く歩きし夏来る日  優嵐

こどもの日も晴天で気温が高く、広峰山からさらに北の旧・香寺町の奥須加院近くまで森の中を歩きました。染まってしまいそうなほどのみずみずしい緑、少し視界が開けると連なる山が見えます。途中マウンテンバイクに一台であったくらいで、のんびりゆったりと森歩きを楽しみました。

先日から因果律やら観音菩薩やらと仏教的・スピリチュアル的な気づきについて書いてきました。今日の坂井泉水さんの誕生の「日」に関しても、ZARDの楽曲の中からそういう雰囲気を持ったものを取り上げてみようかと思っていました。詞の内容そのものがスピリチュアルだなと私が思うのは、『止まっていた時計が今動き出した』です。ラブソングの体裁を残してはいますが、哲学的ともとれる歌詞です。

この歌詞について書こうかと考えていたら、今朝目が覚めた時、「ふとした瞬間に視線がぶつかる〜」という声がしました。あれ、これは…、ああ『負けないで』だよね。うん、はいはい、とこの歌詞を反芻していました。眠っているときはどこかでインスピレーションをいただけるようです。

これは何かのヒントだろう、と考えているうちに、この歌詞を読みかえれば非常にスピリチュアルだということに気がつきました。

負けないで 



「ふとした瞬間に 視線がぶつかる幸運(しあわせ)のときめき 覚えているでしょ」---このフレーズですが、文字通り恋人同士の視線が交錯するという場面ではなく、<内的な出会い>つまり、観音菩薩などに代表される、人間の内面に働きかけてくれる聖なる何者かとの邂逅の瞬間を描いている、と解釈すればすべてが変わります。

さらに歌詞のサビの部分、「負けないで もう少し 最後まで走り抜けて どんなに離れてても心は そばにいるわ 追いかけて 遥かな夢を」というのは、生身の人間よりはもっと違う何か大きな存在からの言葉のようにきこえませんか? どんなに離れてても心はそばにいる、なんていうところが特に。物質的存在でないならば、どのような距離・時間・障壁も問題になりません。出会うのは心だからです。

その聖なる存在は言うのです、こんな風に。

『負けないで〜観音菩薩ver.』
出会いの瞬間の幸せを覚えていますね?
そのままの輝いているあなたでいてください
負けないで 
どんなに離れているように思えても
私はここにいます

何が起きても大丈夫
あなたのことをいつも思っています
忘れないでください

負けないで 
目指すものは近づいています
あなたを常に支えています
心を澄ませば私を感じられるでしょう

□◆□…優嵐歳時記(2175)…□◆□

  八重山吹過ぎれば古き土塀かな   優嵐

今日は立夏です。半月ほど前まで炬燵が必要なほど寒い日があったのに、昨日は半袖のポロシャツで過ごす陽気になりました。この春は、ほどよいのどかな春のお天気というのがあまり無かったように思います。

因果律から気づいたことをこのところ書いています。ひとつ何かに気がつくとその周辺のことが連鎖反応的に掘り起こされてきます。昨日は「観音菩薩の現世利益」について書きました。昨年、法然と浄土仏教の信仰について何冊か本を読みました。

浄土仏教は絶対他力の信仰です。凡夫たるわれわれには修行という自力で救われる道はないと見定め、「南無阿弥陀仏」と唱えることによって阿弥陀さまと縁を結びます。そして、この世を去ったあと、阿弥陀如来の力によって極楽浄土に往生し、そこで仏になる修行をして成仏し、次は他の人を救うためにこの世に戻ってきます。そうした他力本願と往還が浄土仏教のおおまかな思想だと私は理解しました。

観音菩薩は勢至菩薩とともに阿弥陀如来の脇持仏です。観音菩薩の現世利益というのは、阿弥陀如来の「浄土への救い」と一対になっているものではないか、と気がつきました。浄土仏教では悪人正機、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という『歎異抄』の言葉(これは法然の言葉だと言われています)が有名です。

この世での自分の悪を自覚し、それにおののいている人を阿弥陀仏は真っ先に救うという思想です。悪を自覚するのは苦しいことです。悪を自覚しつつそれでもそこから抜けられない、怒りや貪りから逃れられない、それが人間です。そして、阿弥陀仏の救いに先立って、現世における自分の悪に苦しむ人を救うために現れる仏が観音菩薩なのではないでしょうか。

外的な援助や助言・忠告は現世を生きている人間にもできます。しかし、その人を内面から変える力は「神仏」という名で呼ばれるものしか持ち得ないと思います。その人の内側からその人に呼びかけ、私はここにいる、あなたを支えている、いつでもともにいる、と直感を通じて知らせることができるのは、そうした存在だけです。

神仏が与えられる現世利益とは、そういう形でしかありえないでしょう。その人の心に直接語りかけるという、現実の人間にはとうてい成しえないことであるからこそ、人間は感激し真実を悟るのです。理屈ではないリアリティがそこにあります。

観音菩薩は多くの仏像彫刻になっていますが、あれは観音菩薩の霊力を象徴的に示したものであり、観音菩薩があのような姿形をしているというのではありません。だから、本当のところをいえば別にお寺や特別な場所に出かけていかなくてもどこでも観音菩薩にめぐり合うことはできる、と思います。観音菩薩(観自在菩薩)の名前は「人々の声を聞き、自在に姿を現してくださる菩薩」という意味です。

さらに進めていえば、観音菩薩の名前や仏教というものを知らなくても「観音菩薩と仏教で呼ぶところの何か」に出会うことは可能でしょう。他の宗教ではおそらく他の名前がつけられていると思います。神仏の名は同じひとつの「何らかの働き」に人間が便宜上つけた名前に過ぎないと思うからです。


<時間と自我>
そこに時間はない
時間とは自我の別名だ
時間から自由になるとき
私たちは自我からも自由になる

分離から統合へと戻るとき
仮の世から本来の場所へ戻るとき
時間は消え自我は消える
そこにあるのは
大いなる意識と永遠の今


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□◆□…優嵐歳時記(2174)…□◆□ 

  竹林を八十八夜の風渡る   優嵐

ゴールデンウイークに入ってから晴天が続いています。昨日は一昨日の散歩と同じコースを逆周りで歩いてきました。広峰神社から弥高山に至る森はほぼ平坦で、コナラやアベマキ、カエデといった落葉樹の明るさは素晴らしく、とても豊かなひとときを過ごすことができました。

因果律から思いついたことをもう少し書いてみたいと思います。仏教では「人生は苦である」と説き、その代表を「生老病死」としています。いずれも因果律です。筆頭に「生」が来ているのは、生という因があればこそ、後の三つの苦が起こると考えれば納得できます。ここでいう苦とは「思うに任せないもの」という意味だそうです。

思うに任せないものを思うままにしたいと執着するのが煩悩です。逆に本来は因果律から外れているはずの感情を手放せないことも煩悩でしょう。ここで、観音経のことを思い出しました。観音経は法華経の中のお経です。観音菩薩(梵名:アヴァローキテーシュヴァラ)は現世利益の仏とされ、広く信仰されています。

観音経にはその功徳が述べられており、観音菩薩の名を唱えさえすれば火難・水難・盗賊をはじめとする七難からことごとく逃れられると書いてあります。そのまま読めば荒唐無稽な話ですが、この「難」を内側からの煩悩と解釈すれば理解できるように思います。

怒り、妬み、恨み、憎しみといった感情は、それを向けられた相手を傷つけますが、それと同じかそれ以上にその感情を抱き続けている人を傷つけます。「人を呪わば穴二つ」です。しかし、なかなかその感情を手放すことができないのもまた人間です。そんなときに助けを求める存在として観音菩薩がいらっしゃると考えられないでしょうか。

現世利益といっても、観音菩薩は商売繁盛や結婚や進学・就職を助けるといった、世俗的な利益をもたらしてくださる仏ではないと思います。どうしてもふっきれない煩悩の中でもがき苦しんでいる人が、「どうかここから救ってください」とお願いする。そしてそれに応じて自在に姿を現してくださる、それが観音さまじゃないかと思うんですね。

煩悩にとらわれてしまう自分という弱い存在、それを認めつつ、その私をどうかこの現世において救ってください---観音菩薩への祈りはそれが最もふさわしいのではないでしょうか。どのように救うかは観音菩薩がお決めになるでしょう。


<気づき>
気づきというのは
自分の足の下に大地がある
自分の頭の上に空がある
そういうことに
気づくということだ

気づきというのは
自分の心臓が動いている
自分の網膜が光をとらえている
そういうことに
気づくということだ

気づきというのは
自分が言葉を発している
自分の名前が呼ばれる
そういうことに
気づくということだ


今日の名言:君は今までなんと素晴らしい生活を送ってきたことか!そのことに、もっと早く気がつけばよかった。


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□◆□…優嵐歳時記(2173)…□◆□

  陽に少し曲がりてつんと松の芯   優嵐

昨日は八十八夜でした。晩春には松も新芽を出します。これを「若緑」「初緑」「松の芯」と言います。いっせいに細長い緑の芽がまっすぐに天を指して伸びるさまには勢いがあります。八重桜以外の桜はほぼ散りましたが、遅咲きのオオシマザクラと思われるものがまだ花をつけています。

昨日の散歩は、増位山方面ではなく峰続きの弥高山から広峰神社を回ってきました。播磨空港の建設予定地でしたが、計画は凍結され、雑木山の山歩きを楽しむことができます。

先日からの続きをもう少し書きます。人間の悲しさは因果律を取り違えているところから来るのかもしれないと思います。つまり、因果律であるものを因果律と認められず、因果律でないものを因果律と思い込んでいるということです。この世の物質界のものはすべて因果律に従って動きます。生まれたものは必ず老い、死にます。

その因果律をはっきり理解していないから老いを嘆き死を嘆きます。若さに執着し、アンチエイジングに励み、不治の病と診断されたら「どうして私が」とうろたえます。しかし、どんな健康法を実践しようと、どれほど医療が発達しようと、ひとりの例外も無く老い死ぬ、これほどはっきりした因果律はありません。死因が何か、いくつで死ぬかなどというのはそれに付随したことにすぎません。

逆に物質でない感情や考えは因果律から自由でいられます。自分がそれを選択していると自覚すれば手放すことが可能です。老いや死という絶対の因果律からなんとか逃れようともがき、逃れられるはずの怒り、妬み、憎しみ、恨みといったものを因果律と思い込んで後生大事に抱え込んでいる…。これは一種の餓鬼道ではあるまいか、とわが身を振り返って思うのです。


<空間>
ある人たちは「科学」と呼ばれる物質で
意識が測れると思い込んでいる
測れないためにそれは存在しないとすら
言い出している

意識はあなたが座っている
部屋の空間のようなものだ
それはそこにある
あなたがいようがいまいが

そこにその空間があるからこそ
あなたはそこに座っていられる
もし空間がなければ
あなたはそこに存在することができない

空間をつかみとることができるだろうか
空間の広さを計測することはできる
けれど空間そのものを実体として
つかみとることは誰にもできない


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□◆□…優嵐歳時記(2172)…□◆□

  軽やかに揺れし苗木の八重桜   優嵐

増位山の頂のすぐ下に山陽自動車道が見えます。西行き車線にほとんど停まったままの自動車が数珠繋ぎでならんでいました。ゴールデンウイークの渋滞のすさまじさを眼下に見て、やはりこの時期に自動車で出かけるのは無謀だと感じました。山の上には誰もおらず緑と光と風があふれています。

次元の違う幸福感についてもう少し話を続けます。山を歩きながらこれについて考えていて、ふと「臨死体験」のことを思い出しました。臨死体験というのは、瀕死の重態に陥った人が、命が助かった後、報告する不思議な体験のことです。

臨死体験をした人は誰もが「非常な幸福感とやすらぎに包まれ、あれなら死ぬのは怖くない」と言います。私は臨死体験をしたことはありませんが、昨日触れた高校時代の記憶を思い起こしていて、ほんの少し臨死体験に似ている、と気がついたのです。もちろん、経験の内容は比べ物にならないでしょうし、すべては内的な経験であり比較することはできません。

ただ、臨死体験というのは、「何か」が自我から完全に解き放たれたときに感じる例えようもないほどの解放感なのではないか、と感じたのです。自我は中世の騎士が身にまとう鎧のようなものでしょう。重く頑丈で外界と自身を遮断し、中にいる人は兜の隙間からようやく外を覗き見るだけです。

それを一気に脱ぎ捨てたときに感じるものが、臨死体験者が報告する幸福感ではないでしょうか。似たものは熟達した瞑想者の<三昧>や、スポーツ選手などが報告する<ゾーン><フロー>と呼ばれる状態です。これは客観的に計測できるものではありませんが、こうした精神状態、意識状態が存在することは確実です。


<大いなる意識>
別々の魂というものはない
私たちはそれぞれが「大いなる意識」から
三次元へと開かれた小さな窓だ
その窓を通して意識は経験をする

意識は神とも仏とも
数知れぬ名でよばれてきた
私たちひとりひとりが
神であり仏である

物質があって意識が生まれるのではない
意識が手段として物質を生んでいる

開かれた窓が閉じられるとき
肉体は消滅し
私たちは元の場所へ帰還する
分離された状態を終えて
統合された本来の状態へと帰る

三次元にいるときも
つながりは保たれている
自分の内側に耳を澄ましてみれば
そのつながりに気づくはずだ
決して途切れることはない

だからすべてはつながっている
あの人もこの人も
地上に存在するすべてのものと
つながっている

窓の数がいくつあろうと
本来同じものの異なる側面だ


今日の名言:君の前途がどうぞ多難でありますように。多難であればあるほど、実りは大きい。


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□◆□…優嵐歳時記(2171)…□◆□

  稜線は木の芽の色にほぐれゆく   優嵐

春に芽吹く木の芽、「きのめ」とも言いますが、俳句では雅語的な響きから一般に「このめ」と詠まれます。葉芽、花芽、木の種類によって千差万別の木の芽です。特に雑木山の芽吹きの時期は緑、黄緑、萌黄、黄色、紅、薄茶、さらにそれらの濃淡さまざまが並び、美しいものです。

家の近くの山の標高は100m〜200mというあたりです。稜線に生えているのはコナラ、アベマキなどですが、この時期は葉芽が青空を背景に広がりはじめています。真夏になると葉が茂って稜線の向こうの空は見えなくなります。そして初冬になると葉が落ちて空が見えるようになり、真冬から春さきまでは樹木の枝の様子がスケルトンとなって残ります。

さて、昨日からの続きを書きます。次元の違う幸福感に満たされるのを初めて経験したのは、高校生のときでした。休日の校舎の前の坂道を、ひとり校門までゆっくり下っていたとき、いきなり何かもの凄い幸福感が襲ってきました。周りの景色が輝いているように見え、何がなんだかわからなくてただびっくりしていました。

ほんの一瞬だったのでしょうけれど、今でも鮮明に覚えているほどですから非常に新鮮な、感動的な体験だったのです。喜びとか幸福感というのは何かの原因があってそこから起こってくるもの、と普通は思われがちです。しかし、どうも違う種類のものがあるらしい、とこのときから思っていました。

その後も似たような経験は何度かありました。うまく説明できないのであまり話したことはないのですが、もしかしたら自我の選別ということを外せば、私たちはいつでもこの幸福感に入っていけるのかもしれないと感じています。

キリスト教で「神の愛」、仏教では「仏の慈悲」という言葉であらわされているのがこれじゃないか、と思うのです。「あなたは神に愛されています」などという言葉をきいても、いまひとつその「愛」という言葉がわかりませんでした。しかし、それは、私が人間の世界にある「欲、依存、快楽、打算」に侵食された<愛>しか思い描けないからなのでしょう。条件付の愛ですね。

けれど、この次元の違う幸福感というのは、私に何の条件も出しません。もしかしたら、これが「神の愛」というものかも、と今思っているのです。それは常にそこにあり、いつも私たちを取り囲んでいるのだけれど、私たち自身が自分のネガティブな感情の選択に忙しくてなかなかそれに気づけない。

もし、怒りや妬みや苛立ち、そうした感情を選ばず、積極的に手放すようにしたら、この「愛」はもっと容易に感じられるようになるかもしれないと思います。イエスは「柔和な人は幸いである」といい、ブッダは「怒りを制御せよ」と教えています。怒りを手放し柔和であることを選択すれば世界が変わる…。


<糸>
怒りはほつれ始めた糸のよう
気づいたら手当てをしよう
それ以上ほつれないように

変に引っ張るとほつれがひどくなる
すぐにかがっておけば
何事もなくおさまったものを

衝動にまかせて引っ張ると
糸は容赦なくほどけていく
お気に入りのセーターが
台無しになる

糸がほつれることは
いつだってある
誰のせいかなんて尋ねるよりも
さっと手当てをしてやろう


今日の名言:あなたの敵を許しなさい。しかし、名前を忘れてはなりません。


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□◆□…優嵐歳時記(2170)…□◆□

  降りだせば声高らかに昼蛙   優嵐

蛙は春の季語です。カエルとも読まれますが、カワズと読まれることが多いようです。今日の句も「ひるかわず」と読んでください。

さて、28日のblogに「季節が変わっていくその兆しを感じ取るときほど幸福感にみたされる瞬間はありません。(中略)人間同士のあれこれで得られる幸福感とは何か別の次元の喜びだと思えて仕方がありません」と書きました。29日の朝目が覚めた時、「因果律と外れているから」という声が聞こえました。

※因果律とは--ある事象A(原因)に引き続いて他の事象B(結果)が必然的・規則的に生ずるとき,AとBには因果関係があるといい,これを原理として立てるときこの法則を〈因果律〉とか〈因果〉という。--「コトバンク」

因果律と外れている? まだ半分眠っているような頭で思いをめぐらせていると、「感情というのは基本的に因果律から外れているものであり、自分が選び取っているものだ」ということが突然わかりました。

この世の物質的なことはすべて因果律に従います。朝は昼になり夜になります。生まれたものは成長・老化し、遅かれ早かれ必ず死にます。朝が突然夜になったり、生まれたものが永久に老化しなかったり死滅しないなどということはありません。そこには厳然とした因果律があります。

しかし、感情や考えはそういうものと違います。人は自分の中に起こってくる感情が何かによって引き起こされたと思いがちです。怒らせる、悲しませる、喜ばせるなどという言葉を私たちは当然のように口にします。しかし、実はこれが間違った考え方だということに気がつきました。

感情は私が選んでいるのです。たくさんある感情のカードの中から今はこの感情を選ぼうと決めてその感情を自分で手に取るのです。出来事と感情の間に因果律はありません。どれほど因果律があるように見えても実は違うのです。

私たちは感情を学習しているように思います。「こういうときはこういう感情を抱くべき」だといつの間にか学習し、それを選び取っているのです。人間同士の行動と感情の間には、あたかも因果律であるかのような関係が成り立ちやすくなっています。

季節の移り変わりを感じ取るときに大きな幸福感にみたされ、それが人間同士のあれこれで得られる幸福感とは次元が違うもののように感じられたのは、これが感情の因果律と思いこんでいたものから外れているからだと気がつきました。

ある感情が生まれるには、それにふさわしく思える何かがなければならないと私たちは思い込んでいます。喜びなら喜びを呼び起こす何か、腹立たしいなら腹立たしいと思わせる何か、です。それが自分の感情の引き金を引くと思っているのです。

これだと私たちは鈎でひっかけて水槽から吊り上げられる魚のようなものです。ある感情の鈎がきたら有無を言わさずその感情で吊り上げられ、自由はありません。これが「因果律」です。しかし、自分がその感情を選んでつかんでいるのだとしたら、いつでもそれを手放して自由になることができます。これが「因果律から外れる」ということです。

これは私にとっては結構大きな発見でした。明日もこのことについて考えてみたいと思います。


<錯覚・その2>
自我は錯覚だという
なぜそのような錯覚が生まれたのか

この世で生きていくためには
肉体がなければならない
肉体は生き残らなければならない

人間には強力な肉体的武器がない
生き残りのために発達した武器の一種が自我

自分のまわりは敵であり
得体の知れないものである

自我は記憶の中にデータを溜め込み
何かに出会う都度それを参照する
過去を参照しつつ未来に備える
戦うか逃げるか

自我は両刃の刃
己を守ると同時に外界と遮断する

自我は背中のザックのようなもの
未熟な人ほど荷物が大きくなる
あれもこれもと詰め込むから

人生は長距離の徒歩旅行
しなやかに素早く自由に歩くには
背中の荷物は軽い方がいい

最小限のものを工夫して使う
不要なものは捨て去ること
すべてのものは敵と怯えず
すべてのものの友であるように


今日の名言:敵のため火を吹く怒りも、加熱しすぎてはあなたが火傷する。


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□◆□…優嵐歳時記(2169)…□◆□

  さわさわと風通りけり竹の秋   優嵐

晩春になると竹の葉が黄ばんできます。地中の筍を育てるために一時的に葉が衰えるからです。これを他の植物の秋の様子になぞらえて「竹の秋」と言います。周囲の野山は若葉の季節を迎えており、萌え出した緑を揺らす風が黄ばんだ竹の葉も揺らしていきます。

四月は間もなく終り、春も終りです。八十八夜が5月2日、立夏は5月5日です。さすがに晴天になると日差しが強くなったことがわかります。風がさらりとしているため、まだ暑さはそれほど感じませんが、目を細めていないと光がまぶしく、紫外線も強くなっています。


<錯覚>
人間の最大の錯覚は
変わらない「個」としての自分が存在する
と思い込んでいること

こうして呼吸している間にも
自分は変わっている
身体中の細胞が刻一刻と
入れ替わっている

食べたものと呼吸したものによって
ひとときの休みもなく

独立した「個」というものはありえない
入れ替えによって
すべてがつながっているから

それなのになぜこれほどはっきり
「個」が存在すると勘違いしているのか
誰がそう思い込んでいるのか

そう思い込んでいるのが
「自我」という名で呼ばれるもの
そう錯覚しなければ自我は存在し得ない


今日の名言:いつまでも人を恨んでいてはならない。あなたが恨んでいる人は、人生を楽しんでいる。


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