優嵐歳時記

俳句と季語。日本の自然と四季が生み出した美しい言葉を。

□◆□…優嵐歳時記(2406)…□◆□

  薔薇一本飾りて集う忘年会   優嵐

今日は冬至です。忘年会シーズンはそろそろピークを過ぎようとしているころでしょうか。先日のアートセラピーの忘年会では、薔薇と手作りの蜜蝋の蝋燭を持ってきてくださった方がありました。これを飾るだけで、その場がぐんと神聖な雰囲気になり、いいものだなあと思いました。

火曜日は午後から雨になりました。いただきものの白菜にいただきものの塩昆布をまぜて浅漬けを作りました。もともとあまりお漬物を食べない人間だったのですが、塩昆布のパッケージにおすすめのメニューとして浅漬けが載っており、試してみました。これが意外なおいしさ。しゃきしゃっきとした白菜の冷たい歯ざわりが心地よく、残りの白菜もこの食べ方でいただこう、と思いました。


<陰陽>
明日から太陽はよみがえる
この世のすべては
陰陽が入れ替わる波

夜がなければ昼はなく
下がなければ上はない

陰が極まれば陽が芽生え
陽が極まれば陰へと転じていく
その変化こそ永遠に変わらないもの


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□◆□…優嵐歳時記(2405)…□◆□

  境内に人の声あり焚火の香   優嵐

日曜日のアートセラピーの後、忘年会をやりました。その前に行ったワークについて書いておきます。最初は四つ切の紙にクレヨンで数字の8の形の図形を描くというものでした。この三ヶ月のワークは「呼吸」がテーマでしたので、呼吸に意識を向けながら、描きます。

これまでも○や楕円などを描いてきましたが、今回は8との微妙な違いを感じとりながら描いていきました。8の場合他の図形と大きく違うのは途中でねじれて交差するということです。この日、描いた図形は中心がやや左にずれており、それ以前の振り返りで話したことが心にひっかかっていた影響かもしれない、と思いました。

単純な図形ながら、こういうものを継続して描けば、そのときの自分の感じ方、呼吸、描いた図形の変化を見ていくことができます。お手玉にもそれは通じていて、簡単なことを継続してやり、そこに生れる変化を見ることが重要です。

もうひとつはこの8の形を中央で交差させながら、上下の大きさを次第に変えていくという形を描きました。ちょうど蝶の翅か口を開いた二枚貝のような形になります。かなり意識的に描いていかないと、何本か線が重なるうちに今どこを描いているのか、次はどの線に移るのかよくわからなくなります。

先ほどクレパスを使ってB2のクロッキーブックに8を描いてみました。右手で描く場合、やはり中心が少し左にずれます。身体の癖でしょうか。身体全体を使って描くようにすると描きやすいように思います。しばらく8を描いてみるのもおもしろいかもしれません。

忘年会では豆乳鍋を作って食べました。外食ではなく、自分たちで作って食べると安くてたっぷり食べることができます。お米や野菜を持ってきてくださった方もあり、とても食べきれないくらいの量になりました。満腹・満足で家路につきました。


<根源的欲求>
知りたいのは
自分が誰かということ

名前や役割で呼ばれる何かではなく

自分がどこからきてどこへいこうとしている
何者なのかということ

ただそれだけなのだ


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□◆□…優嵐歳時記(2404)…□◆□ 

  枕木に霜おく単線列車かな   優嵐

朝は晴れて気温が下がり、霜がおりていました。日曜日は、アートセラピーのために大阪へ行きました。いつもその日のワークを始める前に前回の振り返りと今日までの間に気づいたことについて話をします。私自身はワークそのものよりも、それによって触発されて日々の生活の中で起きてくる気づきが、自分にとってはアートセラピーのポイントかもしれない、と感じています。

前回、リズ・ブルボーの『私は神!』という本を紹介していただきました。この本を読む前に偶然ケン・ウィルバーの『無境界』を読み、ウィルバーが示唆していることは「私は神」という言葉に近いのではないか、と思いました。ウィルバーは何世代にもわたる智慧の探求者たちの言葉を、現代人にあうようにまとめています。

それは、私たちすべてに共通するひとつの<自己>ないし、<観照者>があるということです。私たちの身体も記憶も思考も日々変わっていきますが、それでもそういう変化に影響されないものが内側にあります。その深い内的感覚、あらゆる変化から自由である何ものかは、自分の記憶でも思考でも心でも身体でもありません。その何ものでもない「何か」は実際何なのか。

これが「神」と呼ばれるもの、仏教徒が「空」と呼ぶもの、多くの宗教でいろいろな名前がつけられている超越的自己である、とウィルバーは書いています。このことは私にとっては大変納得できることであり、そのことについて話したのですが、どうも、うまく伝わりませんでした。

言葉はもどかしい道具であり、結局こういうことを的確に伝えること、理解を共有することはなかなか困難なことだと知りました。自我やハイヤーセルフといったものについても話すのですが、こういうことも話せば話すほど誤解が重なると思わざるをえませんでした。コミュニケーションの難しさ、特に実際に目の前に出して指し示すことができないものに関して共通理解を持つというのは実に難しいことであり、言葉の虚しさを痛感しました。


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□◆□…優嵐歳時記(2403)…□◆□

  枯木立明るき空へ立ちにけり   優嵐

葉を落とした落葉樹がひとかたまりになっているのを「枯木立」といいます。瀬戸内では冬は晴天の日が多いため、こうした木々の向こうにからっとした青空が広がるのが私たちにはもっともおなじみの冬の空です。

随願寺の境内ではボランティアのみなさんがお掃除をされたらしく、おもだったところから落葉がきれいに除かれ、掃き清められた箒目が残っていました。こういうのを見ると、すがすがしい気分になります。どこかから落葉を焚かれている香りが漂ってきて、いいものだな、と思いました。


<花開く季節>
薔薇を描きながら
その中心に畳まれた花びらを見て
梅の蕾を思い出した

そうだ梅もバラ科だった
梅林の花芽はまだ硬い鱗片に覆われている
それでもそこから花の色が透けて見える

内側から湧き出るように開いていく花
厳しい寒さを越えれば
そこに花開く季節


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□◆□…優嵐歳時記(2402)…□◆□ 

  葉牡丹の渦が並んで陽を浴びる   優嵐

歳末からお正月にかけて、花が少なくなる中、主役になるのが葉牡丹です。近所の道路脇の花壇にも先日葉牡丹が植えられました。この花壇、夏にも花が植えられますが、全く手入れされないため、すぐ雑草に埋もれてしまいます。毎年、その雑草をきれいに刈ってならし、その後にずらっと葉牡丹が並びます。これを見ると、お正月が近い、と感じます。

葉牡丹はアブラナ科でキャベツの仲間です。色づいた葉が牡丹を思わせることからこの名がつきました。二月ごろまで美しさを保ち、春になると茎が塔のように高くなって、アブラナ科でお馴染みの黄色い花を咲かせます。原産地の西ヨーロッパでは野菜として栽培されていました。江戸時代の初めにオランダを経由して日本に入り、オランダ菜と呼ばれたそうです。観賞用として品種改良されたのは明治に入ってからのことです。


<連凧>
間もなく新しい年がやってくる
過ぎていこうとする一年に感謝し
やってくる年を迎える計画をたてよう

わかっているのは
計画通りには絶対にならないということ
人生はブラックボックスから出てくる
不ぞろいな連凧のようなもの

ひとつひとつ違っていてそれでも連なっている
出てくる限りはハラをくくって
それを大空へあげよう


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□◆□…優嵐歳時記(2401)…□◆□

  冷たさに向かいて坂を登りけり   優嵐

木曜日は朝から曇ってお昼でも外気温は五度しかありませんでした。散歩に行った増位山では二度でした。風はなく、空気全体が冷えているという感じです。十二月も半ばを過ぎ、暖かい瀬戸内でも冬らしい気温になってきました。それでも頂のまわりではまだハゼノキが鮮やかな紅葉を残しています。

初めてiPadの実物に触れました。知り合いの人が持っているのを触らせていただいたのですが、想像以上に画面が美しいのにびっくりしました。薄くて軽く、まるで雑誌かノートのようです。難しい操作は不要で、しばらくすればすぐ慣れるでしょう。キーボードがありませんから、長い文章を作るような仕事には不向きですが、何かを見たり調べたりすること、つまりテレビや書籍と同様の用途にはぴったりだと思いました。


<あたりまえすぎること>
臓器移植が難しいのは
免疫がそれを許さないからだ
自己と非自己を峻別する

それなのに
何日か前に食べた豆腐や魚が
いつの間にか「自己」になっている

なぜ臓器は拒絶されるのに
食べたものは拒絶されないのか
あたりまえすぎて誰もそれを問わない

豆腐を「私」に変えるものは何なのか
その関門を通れば自己と非自己の区別は無い


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□◆□…優嵐歳時記(2400)…□◆□

  枯枝の交わす模様が空に透け   優嵐

この「枯枝」も「枯木」と同じで葉を落としてしまった落葉樹の枝のことで、枯れてしまった枝ではありません。アベマキ、コナラ、カエデなどはほぼ落葉を終りました。青空を背景に見事なシルエットを作るこれらの枝は冬の美のひとつです。これらの枝の走り方に、川筋や血管といったものとの共通性を感じます。こういう形がもっとも理に適っているのでしょう。

今、ケン・ウィルバーの『グレース&グリット』を読んでいます。しばらくあまり本は読まないだろうと思っていたのですが、彼の『無境界』を読んでとてもおもしろかったので、こちらも読んでみることにしました。乳がんで亡くなった妻のトレヤについて書かれています。

新婚五日目で悪性の乳がんが見つかり、五年の闘病の後世を去った彼女と、トランスパーソナル心理学最大の論客といわれるケン・ウィルバーとの言葉が記されており、よくある闘病記とは少し趣が違います。まだ四分の一ほどしか読んでいませんが、いろいろ教えられそうな本です。


<本末転倒>
科学や論理は「地図」である
この世の限定された何ごとかに関して
行き先を教えてくれる有効な道具

しかし地図は地図であり
地形そのものではない
そのことを理解していなければ
地図に描けないのは地形が間違っているという
妙な話になる


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□◆□…優嵐歳時記(2399)…□◆□

  南天の実にも葉にも陽の燦と   優嵐

南天は晩秋から冬にかけて丸い実が熟します。白、黄色、紫色のものもありますが、やはり真赤に熟した実が緑の葉の間で揺れているというのが、印象深いものです。南天は「難を転じる」との意味から縁起木として庭に植えられ、彩りの少ない冬の庭を明るいものにしてくれます。

メギ科の常緑低木で、五月から六月にかけて白い花が咲き、「南天の花」は夏の季語になっています。南天の実は生薬で咳止めに用いられます。実が白くなる白南天が良質とされています。


<自然>
自然は後悔しない
自然は恐れない
それは自然が愚かだからか?
自然に心が無いからか?

自然は人類の知性と心を生み出した
無から有が生み出されることはない

自然はすべてを含みすべてを超越している
自然があまりにも賢明すぎるため
人類はとうていそのすべてを見通せない


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□◆□…優嵐歳時記(2398)…□◆□ 

  朽野にひとり聞くなり雨の音   優嵐

日没が最も早いころです。日中時間が一番短いのは冬至ですが、日没はそれ以前にもっとも早い時間になり、冬至のころはすでに少し遅くなりつつあります。それでも日中の時間が短くなるのは、日の出が遅くなっていくからです。2009年神戸の日出没時刻はこのようになっています。なぜそうなるのか、地軸の傾きと関係があるのでしょうか。

「朽野(くだらの)」とは、「枯野」のことです。月曜日は一日雨になり、かなりしっかりと降りました。それでも傘をさして自然歩道へ行ってきました。雨の中を歩くのも晴天とは異なる趣があっていいものです。暴風雨でもない限り一日一度は自然の中へいくようにしています。気持ちがすっきりしますし、俳句もその中で生れやすくなります。


<繭>
目を覚まして活動していると思っている君よ
ぼくらは眠っているのだ
日常の意識の中で眠っている

ぼくらの真の姿はそこにはない
ぼくらは繭に包まれているのだ
そしてその外側には全く違うリアリティがある

それを知らないものだけが
そんなものは無いといい
幻想だといい
眠りの繭の中に留まろうとする


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□◆□…優嵐歳時記(2397)…□◆□

  時雨来る中に小菊を剪り分ける   優嵐

初冬の頃、曇っているときだけでなく、晴れていてもさっと雲が出てしばらくぱらぱらと雨が降ることがあります。山が近いところに多く、奈良盆地の時雨は『万葉集』に詠まれています。京都も時雨が多いところであり、時雨が雨脚をひいて山から山へと移っていく様子を「山めぐり」といい、山に囲まれた京都にこそふさわしい言葉です。

山が遠い関東平野では時雨が降ることは少ないようです。確かに、東京へ行ったらなんだか様子が違うと思うのは、視界の中に山が見えないからだと気がつきました。東京は、江戸の町として徳川家康が整備するまでは、川が錯綜する沼地のようなところでしたから、山が見えないのも無理はありません。

<達人>
絵を描いていて意外に難しいのが単純な形だ
円筒形のボトルやカップ、球形、直方体
一見なんでもなく描けそうに思えるこれらの形は
実はわずかな狂いがはっきり露わになってしまう

人の顔や複雑な造形物も確かに描くのは難しい
けれど
それとはまた違う難しさが
これらのシンプルな形にはある

恐らく簡単な形だと
どこかで手や気を抜いてしまうのだ
甘さが出るとでも言えようか

達人は簡単な仕事ほど丁寧に
最後まで気を抜かずにやるという
どれほど容易に見えることでも
油断をしない周到さがある
まだまだ道は遠い


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