優嵐歳時記

俳句と季語。日本の自然と四季が生み出した美しい言葉を。

□◆□…優嵐歳時記(2015)…□◆□

  銀杏落葉金色をいま惜しげなく   優嵐

近所の銀杏がいま黄葉の盛りです。黄葉しながら散っていきます。その鮮やかな黄色は冬の空気に最後の華やかな彩を与えています。銀杏が散ってしまうと真冬になります。それを見上げていると、思いがけず車から声をかけられました。学生時代の友人です。

仕事で出張した帰りということでした。車を脇へ寄せて助手席に乗り込みしばらく近況やら何やらひとしきり話し込みました。自分もつい数年前まで同じ仕事をしていたのですが、なんだかもう遠い夢のようです。自分の生活も変わったし、気持ちも変わってしまったなあと思わざるをえません。

人間は変わっていないようでいて、変わらずにはいられないものなのです。この一瞬にも自分が意識していないだけで着実に変わっています。変わっているということがすなわち生きているということなのでしょう。


<久しぶり>
「久しぶり」という言葉を
初めて使ったのは
いつだっただろう

中学までは友だちの
顔ぶれが増える一方で
ばらばらになることなどなかった

別々の高校に進み
違う制服を着て
初めて「久しぶり」という
言葉を使ったような気がする

あれから随分長い時間がたって
友だちに会うともう
「久しぶり」ばかりだ

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□◆□…優嵐歳時記(2014)…□◆□

  湯豆腐にふるふる揺れる角のあり   優嵐

鍋物のおいしい季節になってきました。湯豆腐はなかでも最も手軽であっさりとしており、実に日本的な料理です。夏は冷奴、冬は湯豆腐と寒暑を問わず愛でられているというのも豆腐の特徴です。

明日が粗大ゴミの日で、整理したものをあれこれ出したら倉庫代わりの部屋がどっと空きました。すっきりするなあ。まだしばらく整理は続くので、もっとすっきりするはずです。

オークション商品を発送するのに意外に役に立ってくれたのがさまざまな店でいただいた袋でした。本は紙袋の方がいいですが、衣類や鞄などは形が自由になるビニール袋の方が勝手がいいのです。さらに、大型のものにはゴミ袋が大活躍。


<鍋物>
お鍋の季節だね
何がいい

すき焼き
寄鍋
牡丹鍋
ちり鍋
湯豆腐
おでん
石狩鍋

何だっていいよ
きみといっしょなら


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□◆□…優嵐歳時記(2013)…□◆□

  手袋のゴツゴツあるいはしなやかに   優嵐

手袋は冬の季語ですが、実生活ではいまや四季を問わずにさまざまな手袋が使われています。感染症予防のために医療現場には欠かせませんし、作業、スポーツの効率を高め手を保護するためにも手袋は必要です。

23日は勤労感謝の日でしたが、この辺になるとなんだか祝日として影が薄いという気がします。もともとは、「新嘗祭(にいなめさい)」として今年の初穂を神に奉り宮中で召し上がった儀式に由来します。
現在は勤労と生産を祝い、互いに感謝する日なのだそうですが、子どもの日や敬老の日のように”プレゼント”がらみで騒がれないため、母の日やバレンタインデーよりさらに影が薄いような…。


<手袋>
ずらりと手袋を並べる

ラムスキンのしなやかな黒の手袋
オレンジ色の毛糸の素朴な手袋
最新のテクノロジーを駆使した雪山用手袋
ダイビング用手袋
鹿革の無骨な作業用手袋
フリースの柔らかな手袋
オートバイのハンドルを握るための手袋
自転車用の指先をカットした手袋
雨天用のライディング手袋

手袋をつけると手はひとつの人格を持つ
手袋を変えるたびに人格が変わる
いくつもの手袋を脱ぐとき
そこに現れるのは同じ私の手

私という人格を脱ぐとき
そこにいるのは誰だろう

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□◆□…優嵐歳時記(2012)…□◆□

  冬林檎日差しの甘さ伝えけり   優嵐

冬林檎という種類があるわけではなく、林檎は秋の季語なので、冬になると冬林檎とします。冬紅葉と同じ使い方です。オークション物品がそろそろ終りか、と思っていましたが、十一月いっぱいくらいはかかりそうです。一日三点ほどずつ出していくにしてもそれぞれの商品に説明と写真がいり、そういうことを調べて書いているとそれなりに時間がかかります。

思いがけないものが押入れの奥から出てきて、またまた出品するものが増えたり…。それにしても手袋だけで20セットくらいあります。オートバイに乗るだけで夏用、冬用、雨天用と三種類の手袋があり、同様のものが自転車でもあります。これらは手元においていますが、ウインタースポーツ用の手袋が数種類、日常生活用が数種類、作業用が数種類という具合で、手袋マニアのようなありさまです。


<遊び>
よく遊んだもんだな
自分の中の誰かが苦笑いする

だけどそれはそれでよかったんじゃない?
もうひとりの誰かが言う

楽器を弾いたり絵を描いたり
山に登ったりキャンプしたり

そのときを楽しんで
後悔することなんか
何もなかったよね

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□◆□…優嵐歳時記(2011)…□◆□

  とどまらず残照たたえ紅葉散る   優嵐

今日はまた少し風が冷たく感じられました。喪中葉書が届き始め、気がつくと今年もあと40日ほどで終りです。これから師走半ばごろにかけて紅葉はしだいに散っていきます。桜と並んで紅葉は散りゆくさまが古来から愛でられてきました。

週末にようやく年賀状を買いました。連休中に少し準備をしようと思っています。それにしても、ついこのあいだ丑年の図案を考えたような気がするのですが、この調子だとまたすぐにウサギが跳ね回りそうです。来年のことを言うと鬼が笑う?そうですね、確かに。明日何が起きるか、誰にもわかりません。


<がらん>
押入れががらんとした
がらんとしてしまうと
そこに何があったのか
ほとんど忘れてしまっている

心の押入れもたぶんいま
がらんとしている
そこに何が入ってくるのか
まだわからない

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□◆□…優嵐歳時記(2010)…□◆□

  篠笛を吹く人小春の頂に   優嵐

小春は陰暦十月の異名です。冬に入ってしばらくたった今頃、十一月半ば過ぎから十二月初めごろの穏かな日和を「小春」と呼びます。厳しい冬がやってくる前のひととき、木枯しが吹いたあとに二、三日続く静穏な晴れの日です。小春とは、素敵な呼び方だなと思います。

増位山の頂で眺めを楽しみながら篠笛の練習をされている方に会いました。こんなところで笛を吹いたら実に気持ちがいいでしょう。部屋の中でしていることをたまにアウトドアですると、気分が変わって新鮮です。


<次へ>
ほとんど葉を落としたアベマキから
黄葉が隣り合うコナラに移った
アベマキの落葉を見届けるように
コナラの梢が黄色く変わり始めている
木から木へ黄葉のバトンタッチ

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□◆□…優嵐歳時記(2009)…□◆□

  青き空映して冬田の中の池   優嵐

稲を刈ったあとの田が、ひと冬そのままの状態であるのを「冬田」といいます。雪国であれば間もなく雪に覆われ、雪解けまで根雪の下に埋もれるのでしょう。瀬戸内海沿岸では、冬になると晴天の日が続きます。田園地帯にはため池があり、それが空を映して光っているのは、播州らしい光景です。

オークションに出す物品もそろそろ底をついてきました。一ヶ月以上連日三点ほどの品物を出してきたのですから無理もありません。大小さまざまなものを出品し、大半を引き取ってもらいました。売れそうなものが終わったら、次は捨てるものを捨てようと思っています。

自分が即座に思い浮かべられるものだけを持つ、そういう主義でこれからはやって行くつもりです。何かひとつ買いたくなったら、その前に何かを捨てる、仕舞いこむのは季節的な品物(扇風機、コタツなど)だけにする、と決めました。一足早い年末の大掃除。


<命の色>
森で青虫を見つけた
蛹になって冬を越すのだろうか
枯葉の中で
その鮮やかな緑色は
とても目をひいた
若い命の色

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□◆□…優嵐歳時記(2008)…□◆□

  但馬より丹波摂津と冬の雲  優嵐

雨のあとの今日は青空が眩しい日になりました。少し気温が下がり、冬が歩みを進めたことを感じます。風がなくても頬のあたりに触れる空気の感触が冬です。寒冷地で使っていたタートルネックの首の部分だけのようなものが出てきました。それを首につけると、一枚薄着で平気です。

この冬部屋で愛用しそうです。マフラーのようなものは端がごろごろして邪魔ですが、このネック部分だけのものはさすがアウトドア用と思います。首は大動脈が皮膚近くを通っていて、ここを暖めると身体全体を効率よく暖めることができます。

増位山の頂から今日は大鳴門橋が見えました。空気の澄んだ冬の晴れた日がやはり一番よく見通しがききます。兵庫中部から丹波方面、摂津、淡路へと雲が連なっており、気圧にそって雲ができているのだろうなあと思いながらその様子を眺めていました。


<冬>
そろそろ本番だ
冬がかたわらに座ってそう言う
アベマキはほとんど落葉を終えた

寒さの底へ入っていって
ぼくを通り抜ければそこに春がいる
梅も桜もぼくの中で花を準備するんだ

春が花を咲かせるのだけれど
下ごしらえはぼくの仕事
寒さが花を呼ぶんだよ


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□◆□…優嵐歳時記(2007)…□◆□ 

  短日の夕刻の森霧流れ   優嵐

朝から雨でした。ほぼ一日降り続き、夜に入って雨はやみました。十一月も半ばともなれば日が随分短くなっていることを感じます。季語では、日が短くなっていく時期を秋は「夜長(よなが)」、冬は「短日(たんじつ)」と詠みます。そこにある微妙な感覚の差が日本人の感性ということになるのでしょう。

午後三時を過ぎてから森へ行きました。押入れの奥を発掘していたら、真新しい長靴を見つけました。カヤックに乗っていたころに買ったものだと思うのですが、存在すら忘れていました。これからは自分が把握できるものしか家に置かないことにしようと思います。しかし、雨の中、それを履いて森を歩くのは楽しいものでした。

長靴のよさというのは、濡れる心配をせずにどんどん歩いていけることです。膝下まで長靴がカバーしてくれますから、泥はねも何も気にすることはありません。上にはゴアテックスのレインウェアの上着を着て、傘をさして歩きました。もちろん誰にも会いません。歩き始めのころはまだ明るかったのですが、帰りには薄暗くなってきました。


<雨の森>
長靴をはいて雨の森を歩く
傘をうつ雨の音
霧が木々の間を流れていく
湿った木の香り
ひんやりとした森の空気

濡れた落葉を踏んで
水たまりも気にせず
ずんずん歩いていく

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□◆□…優嵐歳時記(2006)…□◆□

  枯れ薄朝日の中にかろがろと  優嵐

穂も葉も枯れつくした薄を「枯れ薄」あるいは「枯尾花」として詠みます。古来人生のはかなさの象徴のように扱われてきました。しかし、日差しを浴びてきらきらと光っている薄は美しく、一種の解脱を達成したもののようにさえ思えます。執着を捨てているとでもいいましょうか。

オークションに出品するモノを探しているうちに、生きていくのに必要なものはそんなにたくさんいらないのだ、と気がつくようになりました。このモノの溢れた世の中で、必要最小限のモノに絞っていくというのが実は技術や思想のいることなのではないか、と思っています。

私はファッション的なものには全く興味がなく、そういう感覚でのモノはほとんど持っていません。それなのに、ウエストバッグだけでいくつもあるのです。なんてことだ。似たような機能のものをあれもこれもと買って、結局どれだけ使っているのか。必要最低限のモノを使いこなし、そのモノの持ち味を最大限に生かしてやる、それが本当にものを大事にすることなんだろうと今頃気がついています。

モノがあった場所が空間になると、そこに風が通っていくような気がします。モノをたくさん持って、それで豊かになったような気がしていたのは錯覚で、実はそれにとらわれてしまっていたのかもしれません。


<クラゲ>
クラゲは死ぬとき
水に溶けるように
消えてしまうのだという
人間もそうだったらいいのに

できればそのように
かき消すように
ある日雪が解けてしまうように
何も残さずに消えてしまいたい

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