優嵐歳時記

俳句と季語。日本の自然と四季が生み出した美しい言葉を。

□◆□…優嵐歳時記(2008)…□◆□

  但馬より丹波摂津と冬の雲  優嵐

雨のあとの今日は青空が眩しい日になりました。少し気温が下がり、冬が歩みを進めたことを感じます。風がなくても頬のあたりに触れる空気の感触が冬です。寒冷地で使っていたタートルネックの首の部分だけのようなものが出てきました。それを首につけると、一枚薄着で平気です。

この冬部屋で愛用しそうです。マフラーのようなものは端がごろごろして邪魔ですが、このネック部分だけのものはさすがアウトドア用と思います。首は大動脈が皮膚近くを通っていて、ここを暖めると身体全体を効率よく暖めることができます。

増位山の頂から今日は大鳴門橋が見えました。空気の澄んだ冬の晴れた日がやはり一番よく見通しがききます。兵庫中部から丹波方面、摂津、淡路へと雲が連なっており、気圧にそって雲ができているのだろうなあと思いながらその様子を眺めていました。


<冬>
そろそろ本番だ
冬がかたわらに座ってそう言う
アベマキはほとんど落葉を終えた

寒さの底へ入っていって
ぼくを通り抜ければそこに春がいる
梅も桜もぼくの中で花を準備するんだ

春が花を咲かせるのだけれど
下ごしらえはぼくの仕事
寒さが花を呼ぶんだよ


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□◆□…優嵐歳時記(2007)…□◆□ 

  短日の夕刻の森霧流れ   優嵐

朝から雨でした。ほぼ一日降り続き、夜に入って雨はやみました。十一月も半ばともなれば日が随分短くなっていることを感じます。季語では、日が短くなっていく時期を秋は「夜長(よなが)」、冬は「短日(たんじつ)」と詠みます。そこにある微妙な感覚の差が日本人の感性ということになるのでしょう。

午後三時を過ぎてから森へ行きました。押入れの奥を発掘していたら、真新しい長靴を見つけました。カヤックに乗っていたころに買ったものだと思うのですが、存在すら忘れていました。これからは自分が把握できるものしか家に置かないことにしようと思います。しかし、雨の中、それを履いて森を歩くのは楽しいものでした。

長靴のよさというのは、濡れる心配をせずにどんどん歩いていけることです。膝下まで長靴がカバーしてくれますから、泥はねも何も気にすることはありません。上にはゴアテックスのレインウェアの上着を着て、傘をさして歩きました。もちろん誰にも会いません。歩き始めのころはまだ明るかったのですが、帰りには薄暗くなってきました。


<雨の森>
長靴をはいて雨の森を歩く
傘をうつ雨の音
霧が木々の間を流れていく
湿った木の香り
ひんやりとした森の空気

濡れた落葉を踏んで
水たまりも気にせず
ずんずん歩いていく

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□◆□…優嵐歳時記(2006)…□◆□

  枯れ薄朝日の中にかろがろと  優嵐

穂も葉も枯れつくした薄を「枯れ薄」あるいは「枯尾花」として詠みます。古来人生のはかなさの象徴のように扱われてきました。しかし、日差しを浴びてきらきらと光っている薄は美しく、一種の解脱を達成したもののようにさえ思えます。執着を捨てているとでもいいましょうか。

オークションに出品するモノを探しているうちに、生きていくのに必要なものはそんなにたくさんいらないのだ、と気がつくようになりました。このモノの溢れた世の中で、必要最小限のモノに絞っていくというのが実は技術や思想のいることなのではないか、と思っています。

私はファッション的なものには全く興味がなく、そういう感覚でのモノはほとんど持っていません。それなのに、ウエストバッグだけでいくつもあるのです。なんてことだ。似たような機能のものをあれもこれもと買って、結局どれだけ使っているのか。必要最低限のモノを使いこなし、そのモノの持ち味を最大限に生かしてやる、それが本当にものを大事にすることなんだろうと今頃気がついています。

モノがあった場所が空間になると、そこに風が通っていくような気がします。モノをたくさん持って、それで豊かになったような気がしていたのは錯覚で、実はそれにとらわれてしまっていたのかもしれません。


<クラゲ>
クラゲは死ぬとき
水に溶けるように
消えてしまうのだという
人間もそうだったらいいのに

できればそのように
かき消すように
ある日雪が解けてしまうように
何も残さずに消えてしまいたい

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□◆□…優嵐歳時記(2005)…□◆□

  冬浅し海峡ちりめん皺の波   優嵐

アートセラピーのために大阪へ行ってきました。行きは例のごとく海側に座り明石海峡大橋の眺めを楽しみました。海上は細かな波があり、晴天でしたがやはり冬の海峡だと思いました。四季折々、毎回姿が変ります。

九月からずっと「見る」ということをテーマに絵を描いています。人間が見ているということは単に視界に入っているということとは随分違います。見るという単純な行為と思われることひとつをとっても奥が深く、意識的にそのことを考えていくと本当にものを見られている人というのは非常に稀かもしれない、と思います。


<誤解>
世界は人の数だけある
この世界をこのように見ているのは
わたしだけ

自分がこのように見ているから
当然相手もそう見ているだろうと
思いこむところから誤解が始まる

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□◆□…優嵐歳時記(2004)…□◆□

  ゆく船と来る船冬の播磨灘   優嵐

木枯しがやんで、今日はいいお天気になりました。雨が降り風が強く吹いたあとは空気中の塵が吹き払われるのか何もかもがくっきりとした輪郭をみせ、爽快なほどでした。増位山からの眺めも素晴らしく、六甲山から北摂の山なみまで見え、絶景です。

山頂で加古川からこられたという方と話をしました。兵庫県の山をあちこち登っておられるようで、見渡す山の名前を次々と教えていただきました。低い山にはまた低い山なりの楽しみ方があります。ひょいと気軽に登れるのも魅力です。


<風>
強い風が吹いて
景色から曇りを吹き払った
できることならば
心のなかにもときどきは
こうした風を吹かせたい

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□◆□…優嵐歳時記(2003)…□◆□

   落葉敷くうえにテントを広げけり   優嵐

日ごと落葉の量が増えています。頂上近くの森は少し空が透いてきたような気がします。暴風雨でもないかぎり、この一年ほぼ毎日ここにきました。しかし、毎日何かしら変化があって飽きるということがありません。人工物の中ではこうはいかないだろう、と思います。

将来人間が宇宙ステーションのようなところで住むようになったら、空気とか食べものはそれなりに管理されて不自由なく提供されるでしょうが、こうした自然が与えるあたりまえすぎて計算さえしなかったようなものたちの影響が問題になってくるような気がします。



<トランク>
できるだけ
ものをもつまいときめた
いまどんどん手ばなしている

本も道具も服も何もかも
今必要でないものを
いかにたくさんもっているだろう

しがみついている
かかえこんでいる
なんのために

大地震が起きたら?
病気になったら?
ナントカが起きたら?
98%くらいそんなことは
起こらない

もう終わってしまったはずの
ものも後生大事にもっている
なんのために

できることなら
トランクひとつで
引越しができるくらいに
なりたいもの


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□◆□…優嵐歳時記(2002)…□◆□

  山風が散らしてゆきぬ冬紅葉   優嵐

昨夜は夜中木枯しが吹き荒れていました。朝になるとお天気は回復し、日中はからっと晴れていました。週末にはまたお天気が崩れるようです。真冬になってしまうと瀬戸内沿岸は晴れた日が続きます。

山を歩いていると、いろいろな紅葉、黄葉が目を楽しませてくれます。花がなくなるこの時期に葉が彩りを増していくとは、うまくしたものだと思います。花に関しては虫がそれを見つけられるようにああいう色が発達したのでしょうが、葉があのように色づくことの意味はどこにあるのでしょうか。

もし人間が紅葉を鑑賞しなければ、紅葉にはあまり存在意義はなかったように思えます。では何ゆえ落葉広葉樹はああいう仕組みを発達させたのか。赤や黄色に色づく仕組みは科学的に解明されているようですが、その意味については不思議です。あの色を他の動物が美しいとか素晴らしいとか思って落葉樹の生殖行動に何らかの影響を与えているとは思えないからです。


<ソロ>
森の中でテントを広げた
ソロキャンプのための
小さなものだ

これを背負って
山や海へ行った
ひとりで過ごす森の夜

寂しくないの
何度も何度もそうきかれて
不思議だった

ひとりでいるときに
寂しいなんて思ったことはない
内側で自分と対話して
自分で充足している


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□◆□…優嵐歳時記(2001)…□◆□

  雨あがり木枯しの街となりにけり   優嵐

昨夜はかなりしっかり雨が降りました。雨は午前中いっぱいでほぼあがり、そのあと風が強くなりました。木枯しです。一雨ごとに寒くなる時期です。部屋から見える前山は今が紅葉の盛りです。自然歩道の黄葉は雨と風の影響でかなり散っていました。この先一ヶ月ほどの間でほぼすべての落葉樹は葉を落としていきます。

オークションに出品しているうちに、荷物の重さと送料について詳しくなってしまいました。やっぱり、ゆうパックが個人には一番お得かな。さらに定形外郵便で意外なほど大きなものまで送れることも初めて知り、何でも経験してみるものだと実感しています。


<アベマキに>
自然歩道の広場の真ん中にたつ
アベマキの周りには
日ごと落葉が増えていく

春、柔らかな芽生えから開いた葉
夏、太陽の光をいっぱいに受けた葉
秋、役割を終え色を変えていく葉
冬、惜しげもなく散っていく葉

そしてアベマキは枝だけになって
真冬を耐えてゆく

捨てるときに全部捨て去れば
新しい春を迎えることができる
裸木となったアベマキは
造形の美しさを冬空へ立てる

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□◆□…優嵐歳時記(2000)…□◆□

  しっかりと降る気配なり冬はじめ   優嵐

朝から曇っていましたが、お昼ごろから雨がぱらつき始め、夕方からは本格的に降りだしました。今週から来週にかけての天気予報を見ると、姫路周辺は傘マークが並んでいます。気温は高めで、冬の冷たい雨という雰囲気はまだありません。雨の森を散歩してきました。黄葉の盛りで、雨天でも森が明るく感じられます。

車検で借りている代車のラジオからKissFMというローカルFMが流れてきます。ふだん車の運転時は何も聴かないのですが、たまたま借りたときにこの局がかかっていて、しばらくの間だからこれもご縁かと思いながら聴いています。

昨日、散歩からの帰りに車に乗ったら女性ボーカルの歌が流れてきました。知らない曲でしたが、しばらく聴いているうちに「これはユーミンだ」とわかりました。以前、書店でドリカムが流れてきたときも曲は聴いたことがなかったのに、吉田美和とわかりました。

優れたボーカリストというのは、最初の一声を聴いただけで誰かわかるという方があります。私はそこまで鋭くはありませんが、それでもこうした「時代を代表するボーカリストたち」は、独特の声の特徴を持っています。それがどういうものか、形容は難しいのですが、その曰くいいがたいところがこの人たちのボーカリストとしての魅力なのだろう、と納得しました。

そういえば、以前、旅先で中森明菜の歌を耳にして、「いいなあ」と感じたこともあります。なぜか男性のボーカルよりも女性のボーカルの方が私は魅力的に感じることが多いのです。歌を聴くときの魅力は、つきつめればその人の声に集約されます。それは歌唱力とか表現力を超えた、その人が神さまから与えられているもの、という気がします。「ギフト」ですね。


<言葉がなくなるとき>
ものごとすべての
本当の核を
言葉にすることはできない

言葉でしか世界を把握できない
わたしたちは
それをはがゆく思う

言葉の限界があって
その先へはどうしても
手を伸ばすことができない

しかし
それでいいのかもしれない
言葉もなくたたずむとき
自分が何かに触れていることが
わかるから

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□◆□…優嵐歳時記(1999)…□◆□

  彩りや十一月の森ゆけば   優嵐

暖かな姫路では、秋よりも冬に入ってから山が彩りを増していきます。自然歩道沿いも黄葉があちこちに見られるようになってきました。風もなく暖かく、播磨灘は冬霞におおわれて島影が見えません。頂のベンチで寝転んで身体をのびのびと伸ばせる、まだそんな陽気です。もともと冷え込む日は年に一度か二度程度しかありません。雪もほとんど降らず、北国や雪国の方からすれば冬ともいえないのどかな冬です。

オークションをやりながら、これはさまざまなシステムの集積の賜物だと感じています。まず、インターネット高速通信の常時接続が可能にした世界です。しかし、それだけではなく、こうした場を作った企業、デジカメの普及、荷物の迅速な配送追跡システム、安価で信頼性が高い送金や決済システム、さらに郵便という非常に信頼性の高い仕組みがすでに長年に渡って構築されていることなどがあげられます。

インフラというのはこういうもの全体を指していうのでしょう。また、出品者と落札者というお互い見ず知らずのものの信頼関係によって成り立っている仕組みだともいえます。簡単にお金を騙し取られたり、爆弾が送りつけられるかもしれないような社会ではこんなことはできません。誰か一人が構築したわけではなく、日本という社会全体でこういう仕組みを成り立たせているのだと思うと、あらためて凄いと思います。


<りんごのなかに>
りんごをむいた
甘酸っぱい太陽の香り
信州の日差しと雨と風が
その中につまっている

「一枚の紙に雲を見る」と
ティク・ナット・ハンは言った

手元にある一枚の紙の中には
その紙を育てた森
その森を育てた雨
その雨を生んだ雲
すべてが詰まっている

世界にあるすべてのものが
そうだとしたら
この世に自分と無関係なものなど
なにひとつない



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