優嵐歳時記

俳句と季語。日本の自然と四季が生み出した美しい言葉を。

□◆□…優嵐歳時記(1301)…□◆□

  ゆっくりと話さかなに年忘れ  優嵐

今年もあと三週間余りになりました。友人の家で久しぶり
に集まり年忘れ(忘年会)です。しばらくぶりで積もる
話、知り合いの近況なども語りつつ楽しい時間を過ごし
ました。

一年は短いようでも振り返ればいろいろな山坂があり、
それが何年分ともなれば、ひととおり聞きあうだけ
でも驚きがあります。

071206

□◆□…優嵐歳時記(1300)…□◆□

  枯薄かなたに海の光りけり  優嵐

十二月に入り、やはり空気の冷たさが増しています。
暦の上ではそろそろ仲冬、冬の本番です。一昨日あたり
から冬型の気圧配置になり、寒さを感じるようになって
います。

炬燵を簡易な足元だけを暖めるものから、本式のものに
変えました。部屋も真冬仕様です。稲刈りのあと田に
出ていたひつじも枯れ、薄も荻も枯れた色に変わって
きています。

071205

□◆□…優嵐歳時記(1299)…□◆□

  すっきりと冬木になりて立ちたまう  優嵐

落葉樹、常緑樹をあわせ、冬の時節を耐えている木を
「冬木」といいます。どちらかとえいえば、葉を
落とした木がぴったりくる雰囲気です。「枯木」という
季語もあります。枯れてしまった木ではなく、葉を
落とした木のことです。

落葉が終わり、幹と枝だけになってしまうと、葉がある
ときとはまた異なる樹形の美しさがあります。樹木と
しては、厳しい冬を乗り切る手立てでしょうが、こんな
風に人間も余計なものをさっぱり脱ぎ捨てて休める時期
があるといいなと思います。

071204

□◆□…優嵐歳時記(1298)…□◆□

  冬の虹西日の中へ立ちにけり  優嵐

日暮れが最も早いころになりました。いつものように
増位山へ散歩に行きましたが、三時半ごろに家を出ると
もう夕暮れの気配です。途中でしぐれがあり、山頂に
着くと川向こうの山の上に虹がかかっていました。

落葉の時期ですが、木によって少しずつ時期にずれが
あります。同じ広場でもアベマキはすでにすっかり葉を
落としており、よく似たコナラはまだ紅葉中です。

里で最も目だつ黄葉はイチョウですが、山ではタカノツメ
でしょう。増位山にはタカノツメが多く、あちこちで
その黄色い葉を今目にすることができます。

071203

□◆□…優嵐歳時記(1297)…□◆□

  前後して猟犬と歩く落葉山  優嵐

姫路市夢前町にある明神山へ登ってきました。以前一度
登ったことがあるのですが、今は登山道の整備が進み、
メインのコースだけで三つあります。今回は登りに
Cコース、くだりにAコースを歩きました。

標高668mとそれほど高い山ではありませんが、途中から
急激に立ち上がり、山頂付近は鎖場の急登です。どちらの
コースも稜線を通っており、コナラ、クヌギ、タカノツメ、
イロハモミジ、オオモミジなどの紅葉が楽しめました。

山頂周辺では、すでにほとんどの木は落葉を終えており、
わずかな標高差でも、自然ははっきりそれを示すもの
です。山頂からは360度の眺望が楽しめます。あいにく
少しガスが出ていて視界があまり利きませんでしたが、
クリアな日には氷ノ山から四国まで見えるそうです。

下山の途中からポインターらしい犬がついてくるように
なりました。首輪に飼主の住所と名前が記されており、
発信機をつけていることから猟犬です。

先に行かせようとしても離れず、登山口まで私たちの後
をついてきました。飼主がそこにいらして、谷ひとつ
向こうでの猟の途中に迷ったらしいことがわかりました。

071202

□◆□…優嵐歳時記(1296)…□◆□

  万葉の岬小春の小舟いく  優嵐

国道250号は、たつの市御津町から相生市にかけて海に
沿って走り、瀬戸内海国立公園の景色を堪能すること
ができます。久しぶりにオートバイで走ってきました。
紅葉が今さかんに散っており、その中を走るのは、
また風情のあるものでした。

相生湾の東口の突端部にある金ヶ崎を特に”万葉の岬”と
呼び、ここからは家島群島や淡路島、四国など瀬戸内海
の風景を一望のもとに眺められます。

万葉の歌人・山部赤人の「玉藻刈る唐荷の島に島廻する
鵜にしもあれや家思はずあらむ」などの歌碑が立って
います。聖武天皇時代の下級役人であった彼が、派遣さ
れて船で瀬戸内を西へ下っている時の歌と思われます。

071201

□◆□…優嵐歳時記(1295)…□◆□ 

  冬麗や花に包まれし人送る  優嵐

快晴の暖かい日でした。お葬式に行き最後のお別れをして
きました。「まるで眠っているよう」と言われるように、
呼びかけたら、今すぐ起き上がってこられるのではないか、
と思うくらいでした。

葬儀場からの出棺のときに、霊柩車がクラクションを長く
一度だけ鳴らします。永訣の挨拶ということでしょう。
誰かが亡くなるということは、その人と自分とを結んで
いた絆がこの世のものではなくなるということなのだな、
と感じました。だから哀しいのです。

魂や死後の世界を信じている人であっても、やはり
物質世界での関係はこれが最後ということになります。
この世でつかの間ご縁があってお世話になった、そのこと
に感謝して、ご冥福をお祈りしたいと思います。

□◆□…優嵐歳時記(1294)…□◆□

  冬夕焼け通夜の客みな寡黙にて  優嵐

お通夜に行ってきました。末期がんと診断されてわずか
四ヶ月の闘病生活だったということです。人はみな死ぬ
とは思いながら、やはり泣けてきます。

あれが最後にお目にかかったときだったな、とお元気
だったころの面影を思い浮かべます。パワフルで人の倍
以上働かれる方だっただけに、どこかで無理が重なって
いたのかもしれない、と思いました。


071129

□◆□…優嵐歳時記(1293)…□◆□

  もの思う北風吹くひとりの頂で  優嵐

「北風」と書いて単に「きた」と読んでください。
風があり、どんより曇った一日でした。前の職場で
お世話になった方が亡くなりました。入院されている
らしい、ということはつい先日聞いていたのですが、
亡くなられるとは思っていませんでした。

とはいえ、人の命は誰も明日のことすらわからないもの
です。ずっと生きている、ずっと変わらない、と思って
いるのがむしろおかしな思考なのです。生まれたものは
必ず死に、それだけが唯一確実なこと、と思い定めて
いることは大事かもしれません。

071128

□◆□…優嵐歳時記(1292)…□◆□

  軒先の南天かすめ江ノ電行く  優嵐

鎌倉では江ノ電にも乗りました。住宅街を縫うように
走り、路面電車の部分も残っています。高浜虚子が
かつて由比ガ浜の近くに住んでいました。旧居は
すでになく、踏切のすぐそばにそれを示すプレートと
「波音の由比ヶ浜より初電車」の句碑が残されています。

大仏さまのいらっしゃる高徳院には虚子の娘・星野立子
の句碑「大佛の冬日は山に移りけり」があります。
さらに、与謝野晶子の「鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は
美男におはす夏木立かな」の歌碑もあります。

ただし、大仏さまは、正確に言うと釈迦牟尼仏ではなく、
阿弥陀如来だということです。大仏さまの胎内に入る
ことができます。もちろん、入ってきました。

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