□◆□…優嵐歳時記(1287)…□◆□
奥山にしぐれ走りし真昼かな 優嵐
毎日のように増位山のことを書いていたら、よほどそこが
好きなんですね、と言われてしまいました。真夏は
暑くてとても来る気になれませんでしたが、晩秋から
春までは、歩くのにもってこいです。
なぜここへ来るかというと、森、鳥や蝶、花、木々を
通して差し込む日差し、雲、青空、田畑や街、播磨灘の
眺めなどを一番手軽に楽しめる場所だからです。自然の
場所なら海でも川でもいいのですが、人通りが最も
少ないのがここです。
人と会ったり話したりするのが嫌いなわけではもちろん
ありません。しかし、ひとりで自然の中を歩くというのは
とても贅沢なひとときです。それに、俳句を詠むには、
自然の中へ行くことが私にとっては大事ですね。
奥山にしぐれ走りし真昼かな 優嵐
毎日のように増位山のことを書いていたら、よほどそこが
好きなんですね、と言われてしまいました。真夏は
暑くてとても来る気になれませんでしたが、晩秋から
春までは、歩くのにもってこいです。
なぜここへ来るかというと、森、鳥や蝶、花、木々を
通して差し込む日差し、雲、青空、田畑や街、播磨灘の
眺めなどを一番手軽に楽しめる場所だからです。自然の
場所なら海でも川でもいいのですが、人通りが最も
少ないのがここです。
人と会ったり話したりするのが嫌いなわけではもちろん
ありません。しかし、ひとりで自然の中を歩くというのは
とても贅沢なひとときです。それに、俳句を詠むには、
自然の中へ行くことが私にとっては大事ですね。
コメント
コメント一覧 (4)
引用してみます。
私たちの眼は太陽と月と草から、鼻は山から、耳は谷から、血液は川から、
筋肉は土から、脂肪は泥土から、骨は樹木から、髪の毛は木の根や雲や霧から、
呼吸は風からの借り物だ。つまり、私たち自身のものなど本当は何もない。
残念ながら出典を控えていないのですが、確かバリの文献から杉浦康平さんが
引用していたものだったと思います。
感じてはいるけれど言語化できなかったことのようで、見つけた時はひどく
喜びました。
自然を満喫できる場所が身近にあるのは、とても幸せなことですよね。
私は優嵐さまに比べると都会暮らしといえると思いますが
それでも、川沿いに続く木々や流れの様子、空の色といった
ちょっとした自然を感じながら、自転車で子どもの送迎をする時間は
格別な、贅沢な、ココロ休まるひとときで
とても楽しみにし、また大切に思っています。
そうそう、そういう感じですね。
だんだん「自分のもの」といえるようなものは何もないのだ、
と思うようになってきました。
この身体も心もすべて借り物で、たかだか百年にも満たない
期間仮の姿をとる(その間さえ、構成している物質は
絶え間なく入れ替わっていますね)だけで、いずれ宇宙、神、
大自然、なんでもいいですが、元あったところに戻る、
そういうことですね。
自然の中にいるとほっとして心地よいのは人間も自然の一部
だからでしょうね。そういう太古からのリズムの息吹を少し
感じられる場所がやはり人間には必要なんだろうな、と
思います。