□◆□…優嵐歳時記(1769)…□◆□
花冷えに襟立てている少年よ 優嵐
家の前のソメイヨシノがちらほら咲きはじめました。昨日は風があり、気温が低い一日でした。夜になってさらに寒くなりました。花を長持ちさせるにはしばらく寒くなった方がいいでしょう。
ナイターテニスの後、このところ涙もろく困ったのですが、昨夜はそういうこともなく、少し落ち着いてきたか、と思っています。しかし、<導き>には敏感になっています。私は今まで視覚的な人間だと思っていましたし、今も多分イメージは視覚で感じるのが一番得意です。しかし、どうやら導きは聴覚というか<言葉>でもたらされるようです。
心の内側に言葉が浮かんできます。これは目覚めた直後が多いように思います。浮かび上がるように、ひとことやってきます。今までもきっとこういうことはあったのでしょうが、気がつかなかったのです。
昨日、散歩しながら目の前に小さな虫が飛んでいるような感じがしました。何度か振り払いましたが全く効果がありません。もしかすると、飛蚊症になったのかと思いました。ところが、頂上まできて帽子を脱いでよく見てみると、つばに蜘蛛の糸のようなもので小さな虫がぶらさがっていました。
不意に、シンクロニシティだな、と思いました。今経験していることは、飛蚊症のようなものじゃなく、リアルな出来事なんだと教えてくれているようです。知らせは常にあり、それをこちらが受け取れるかどうかにかかっている、そう感じます。
花冷えに襟立てている少年よ 優嵐
家の前のソメイヨシノがちらほら咲きはじめました。昨日は風があり、気温が低い一日でした。夜になってさらに寒くなりました。花を長持ちさせるにはしばらく寒くなった方がいいでしょう。
ナイターテニスの後、このところ涙もろく困ったのですが、昨夜はそういうこともなく、少し落ち着いてきたか、と思っています。しかし、<導き>には敏感になっています。私は今まで視覚的な人間だと思っていましたし、今も多分イメージは視覚で感じるのが一番得意です。しかし、どうやら導きは聴覚というか<言葉>でもたらされるようです。
心の内側に言葉が浮かんできます。これは目覚めた直後が多いように思います。浮かび上がるように、ひとことやってきます。今までもきっとこういうことはあったのでしょうが、気がつかなかったのです。
昨日、散歩しながら目の前に小さな虫が飛んでいるような感じがしました。何度か振り払いましたが全く効果がありません。もしかすると、飛蚊症になったのかと思いました。ところが、頂上まできて帽子を脱いでよく見てみると、つばに蜘蛛の糸のようなもので小さな虫がぶらさがっていました。
不意に、シンクロニシティだな、と思いました。今経験していることは、飛蚊症のようなものじゃなく、リアルな出来事なんだと教えてくれているようです。知らせは常にあり、それをこちらが受け取れるかどうかにかかっている、そう感じます。
コメント
コメント一覧 (2)
「導き」とても良い言葉ですね。煩悩まみれの僕が偉そうなことは何も言えませんが、たぶん優嵐さんはいま人生の中でもとても大切なステップを踏まれているとお察し申し上げます。
僕のような詰まらないことをクヨクヨ考えたり、頭でっかちで要らないことまで考えすぎたりする人間は、どうしても脳味噌と心の乖離が生じてしまい、頭や理屈では分かっていても、頭と心を一つにするのに、僕の頭がもの凄い障壁になって邪魔しています。
ですから、頭と心を無理矢理一致させようとするよりも、心をカラッポにして「導き」を待つのがいちばん良いのではないかと、僕自身も思っています。
僕の場合は、頭で一切考えず本能で生きている妻が、頭でっかちの僕をかなり導いてくれていて、まさに○○子様々です。(^_^;
>いま人生の中でもとても大切なステップを踏まれているとお察し申し上げます。
はい。ターニングポイントというものがあるなら、今はそういう時期に違いない、と思っています。よく人にとってお金や成功や名誉より大事なものがある、といいますが、なんか「それ」が何か少し実感としてわかってきた、というか。なかなかこういう言葉をきいても、きれいごと、と思ってしまいがちですが、「うん、なんかわかってきましたよ」と言えるようになりました。外側じゃなく、内側から来るものが一番大事だ、ということが。
たぶん実際はとてもシンプルなことだと思うのですが、シンプルすぎてわからないのだろうなあと思います。生まれたときのままだったらおそらく容易にわかるのでしょうが、長年の間に知識とか常識とかいろいろな着物をたくさんその上に着込んで、着膨れ状態になってしまうのでしょうね。脱げといわれてもなかなか脱げない。脱ぐと風邪をひくと思い込んでいるから。
>頭でっかちの僕をかなり導いてくれていて、まさに○○子様々です。(^_^;
はるさんにとっては奥さまが「菩薩さま」かもしれませんね(^^)。
観音菩薩の比喩はなかなか見事なものだなあ、と最近感心しています。三十三(これも比喩ですね)に姿を変え、自在に衆生の前に出現し、人びとを救うのが観音菩薩(観自在菩薩)です。仏像の観音さまはカタチですけど、実際はカタチを持たないもっと大きな存在で、その人にあわせてどのような姿にでもなり、どのような手段をとってでも救いをもたらしてくれる存在だとか。「救い」が何かはその人によってこれもまた違うのでしょうけれど。