□◆□…優嵐歳時記(1848)…□◆□
人ふたり待つバス停に枇杷熟れる 優嵐
最近、法然に惹かれてたて続けに関連書籍を読んでいます。昨日、からくりさまからいただいたコメントに「中世に生れていたらお目にかかりたかった」と書きましたが、もしかしたら何代か前の前世で法然と同じ時代(12世紀から13世紀初頭)を生きて彼の帰依者か弟子だった可能性もあるなあ、と思いました。
『平家物語』で有名な熊谷次郎直実も法然の弟子になっています。直実は一の谷の合戦で平敦盛を泣く泣く討ち取ったことで世の無常を感じ、出家します。法然に面会を求め、いきなり刀を研ぎ始めたため、驚いた弟子が法然に取り次ぐと、直実は後生について、真剣にたずねました。
法然は「罪の軽重をいはず、ただ、念仏だにも申せば往生するなり、別の様なし」と応えます。その言葉を聞いて直実は、さめざめと泣いたといいます。なぜ泣かれるのかと問う法然に「私のような罪深いものは、切腹するか手足の一本も切り落とさねばならぬと言われると思っておりました」と直実は言います。私もこの時代に生きていたらこういう荒っぽい武者だったような気がします…。
身近な肉親や友人として接する人は多生のご縁が深い方だそうですが、実際にはお目にかかったことのない人でも、不思議に惹かれたり影響を与えられたりする方というのは、きっと何度も生まれ変わりするうちのどこかでご縁があった方に違いないと思います。
法然は聖人というにふさわしい人でしたし、実際身の回りで不思議なことが起こったそうです。ですから亡くなった後は現世に戻ってくることなどはなく、今は仏となって西方極楽浄土から輪廻の中で苦しむ衆生を救っておられるのだろうなあと思います。
人ふたり待つバス停に枇杷熟れる 優嵐
最近、法然に惹かれてたて続けに関連書籍を読んでいます。昨日、からくりさまからいただいたコメントに「中世に生れていたらお目にかかりたかった」と書きましたが、もしかしたら何代か前の前世で法然と同じ時代(12世紀から13世紀初頭)を生きて彼の帰依者か弟子だった可能性もあるなあ、と思いました。
『平家物語』で有名な熊谷次郎直実も法然の弟子になっています。直実は一の谷の合戦で平敦盛を泣く泣く討ち取ったことで世の無常を感じ、出家します。法然に面会を求め、いきなり刀を研ぎ始めたため、驚いた弟子が法然に取り次ぐと、直実は後生について、真剣にたずねました。
法然は「罪の軽重をいはず、ただ、念仏だにも申せば往生するなり、別の様なし」と応えます。その言葉を聞いて直実は、さめざめと泣いたといいます。なぜ泣かれるのかと問う法然に「私のような罪深いものは、切腹するか手足の一本も切り落とさねばならぬと言われると思っておりました」と直実は言います。私もこの時代に生きていたらこういう荒っぽい武者だったような気がします…。
身近な肉親や友人として接する人は多生のご縁が深い方だそうですが、実際にはお目にかかったことのない人でも、不思議に惹かれたり影響を与えられたりする方というのは、きっと何度も生まれ変わりするうちのどこかでご縁があった方に違いないと思います。
法然は聖人というにふさわしい人でしたし、実際身の回りで不思議なことが起こったそうです。ですから亡くなった後は現世に戻ってくることなどはなく、今は仏となって西方極楽浄土から輪廻の中で苦しむ衆生を救っておられるのだろうなあと思います。
コメント
コメント一覧 (4)
人間として生きながら徳を積み、神仏になられる方がいる一方で、元々神仏である方が、ある使命を持って、あえて人間として生まれることもあると聞いたことがあります。
あえて人間として生れてくるというお話、私も聞いたことがあります。大乗仏教の「菩薩」には二種類あって、修行者として呼ばれる場合と、すでに仏となれる悟った状態でありながら、衆生救済のためにこの世に生れてくる存在があるそうです。
また、そういう霊的に高い存在が地球のある地域全体を救済するために、寝たきり状態の障害児の身体を持ってこの世に生れてきたという話を聞いたことがあります。人間の目から見える都合、不都合、善悪正邪はかなり限られたものであるな、と思わざるをえません。何から救済されたのかはわからないし、そういうことがあったのかどうかさえわからない。表面的には重度の障害児が生まれ、数年で亡くなったということだけですから。
法然自身もその「何らかの使命」を持ってこの世に生れてきた菩薩のひとりだったかもしれません。
もう22日ですが、この日記にコメントを。
> 最近、法然に惹かれてたて続けに関連書籍を読んでいます。昨日、
> からくりさまからいただいたコメントに「中世に生れていたらお目に
> かかりたかった」と書きましたが、もしかしたら何代か前の前世で法然
> と同じ時代(12世紀から13世紀初頭)を生きて彼の帰依者か弟子だった
> 可能性もあるなあ、と思いました。
その可能性はありますね!
ひょっとして、優嵐さんも僕も、前世で法然とご縁があるかも♪
以前、ネットで偶然に、浄土宗のお寺で法然と「臨死体験」の関係を
探っているお寺を見つけたんですが、シンプルなナムアミダブツの繰り返し
というのが、実は瞑想として優れていて、法然が瞑想中に「臨死体験」
のような体験をしたのではないかという仮説を住職が書いてはりました。
たしか、住職はTM(超越瞑想)との類似性も書いてたかな?
僕も、20代後半にシンプルなキーワードを繰り返すTM(超越瞑想)を
習ったことがあり、思考が全て消え去る瞬間を経験したことがあるので、
その仮説に「なるほど!」と思いました。
TM瞑想、耳にしたことがあります。人間の精神の力、というのは凄いものがほんとうはいろいろあるんだろうと思います。「思考が全て消え去る」というのは、なかなか…。ゾーンであり、フローでもありますね。三昧。
ZARDのデビュー10周年記念時の本の中で、彼女が「レコーディング中にほんのたまにだけれど、もの凄く集中できる短い時間がある。もしかしたら、あれが一番幸せな時間だったかもしれないと思う。変でしょう?でも本当にそういうことはあるんです」といったことを述べているんですね。これ、三昧だなあと感じました。
こういうことを変だとは全く思わないし、ああ、やっぱりな、と思いました。こういう状態に入れない人は真のクリエイターじゃない、と。
私は自分が中世の隠遁者だった可能性は大だな、と思っています。高校生のとき将来なりたいと思っていたのが隠遁者でしたから。西行とか兼好とか、どうしたらなれるのかな〜なんてぼんやり考えていましたからね。