□◆□…優嵐歳時記(1888)…□◆□

  梅雨深し少女の頃の歌流る   優嵐

午前中は土砂降りの雨でした。梅雨末期の豪雨です。それでも夕方には晴れてきました。車の窓を開けて走っていると、信号待ちで停まったときに角の店から歌が聞こえてきました。題名が思い出せないのですが、確か小学校高学年の頃に流行っていた歌だったはず、と記憶が甦ってきました。

大ヒットした歌ではないので、あのころ以来初めて耳にしたくらいでした。それなのに、瞬時にさまざまな記憶が浮かんできて、懐かしかったと同時に人間の記憶というのは不思議だなと思いました。

デジタルで情報を扱うとき、文字、画像、動画の順に情報容量が大きくなります。音楽は文字と画像の間くらいの位置でしょうか。デジタルでは文字が一番軽くて記憶させやすく、その情報に意味があろうがなかろうがメモリーに差は出ません。しかし、人間の記憶はこういう形をとりません。「機械的な暗記」という言葉がそれを象徴していて、人間の脳はそういう作業が苦手です。

文字よりも画像の方がはるかに残りやすく、文字であればそこに音楽をつけて歌にしたり、あるいは物語にして意味を持たせたりした方がずっと記憶の定着率が高くなります。歴史の年号をおぼえるのに語呂合わせを使ったりするのはおなじみです。流行歌の歌詞だけを思い出せなくても、メロディが流れてくれば歌えますし、それと同時にその当時の思い出まで甦ってきます。

デジタルなら、余計な情報が附属しない方がいいのに、人間はわざわざそういうことをした方が記憶を保持できるというのは、考えてみれば不思議です。さらに、興味があれば記憶力が倍増するのも特徴です。人工知能の研究ではこういうところはどのように考えられているのでしょうか。

脳は生体ですから、それ自身が新陳代謝をして他の身体の組織と同様に瞬時も留まらず細胞が入れ替わっているはずです。にもかかわらず、記憶が、それもとても利用価値があるとは思えないようなささいな記憶が保持され続けているのはなぜなのでしょう。新陳代謝の際に物理化学的な信号の形で記憶の受け渡しがされているのでしょうが、この膨大な記憶をいったいどうやって保持しているのでしょう。

認知症になった場合、最近のことから忘れていき、若いときの記憶ほど保持され続けます。あれも不思議です。記憶の容量が少なくなっているのなら、不用な昔のことを削除して最近のことを覚えられるようにすればいいのに、と思うのですがそうはなりません。


090722