□◆□…優嵐歳時記(1949)…□◆□

  雑踏にまぎれていくや秋彼岸   優嵐

昨日は秋の彼岸の入りでした。アートセラピーの第六回目で大阪に行っていました。何かが新しくオープンするのか、長蛇の列が地下道にできていました。昨夜はなんだか家に戻ると何もする気がせず、早々と入浴して軽く夕食をとって9時過ぎには眠りました。人ごみの中へ出て行ったこととセラピーの経験の相乗作用か、と思います。

昨日は色鉛筆を使ったスケッチをやりました。「観察」がテーマです。絵を描くことそのものが目的ではなく、それによって自分の内側で起こっていることに気づいていくのが大切です。意識的になることの重要性。ふだん私たちはほとんどのことを無意識にやっています。無意識におこなっているために何が問題かに気づくこともできず、修正もできません。

だから、何か簡単なことから意識を集中させておこなってみることが大事なのです。家でおこなえる簡単なワークの課題をもらいました。日常生活の中で繰り返していることをひとつ選んで、それに意識を集中させてやってみる、というものです。私は「朝食をとる」というのを選び、別の方は「歯を磨く」という行動を選びました。

さて、今朝さっそくやってみて、そのあとそれを思い出しながら記録をつけてびっくりしました。たかが簡単な朝食の準備と食べることそのものの間に起こっていたことの記録が大判の大学ノート2ページ分にも及ぶのです。ふだんなら忘れ去ってしまう行動の中に含まれているこまかなディテール。これでは、毎日記録することは時間的、体力的に無理ですが、記録してみたからこそ何があるかが解ったともいえます。

俳句を詠み始めて、細やかな季節の変化に初めて気づき、それをとらえられるようになりました。こちらの姿勢が変るから、相手は新しい姿を見せてくれる。それと似ていると感じました。最近書いている自由詩でも、素材は、実は日常の中にいくらでも現れてくるし、これまでの私自身の生活史の中に無尽蔵に埋まっているということに気づきました。

気づきというのは、大事件やイベントによって引き起こされるのではなく、ありふれた日常の中に転がっていて、こちらが見ようと目を凝らすか、聴こうと耳を澄ませば、姿を現してくれるのでしょう。人は特別なことを重視するあまり、本当に大事なことを見失っているのかもしれない、そして、それはあらゆることに及ぶのかもしれないと思い始めています。

<秋>
美しき竪琴抱きて
秋の日の
木もれ日の森歩みゆく

澄みわたる空より風の
降りきたり
その竪琴を奏でてゆかん

PICT0895