□◆□…優嵐歳時記(1958)…□◆□
爽籟へいま旅立ちの法然像 優嵐
●法然上人・誕生寺を訪ねる(3)
誕生寺の境内には都へ向かって旅立つ15歳の法然の姿が彫像になっています。「爽籟(そうらい)」は秋風のさわやかな響きをさします。籟は三つの穴のある笛、または響きや声といった意もあります。
「月影の いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ」という法然の歌は阿弥陀如来の救いとそれを求める人の心を詠んでいます。月影が阿弥陀如来であり、すべての場所にあまねく到達する月の光に例えられています。しかし、それも求める人の心があってこそです。「わたしの名を呼びなさい、それを縁としてあなたを救いましょう」阿弥陀如来はそう呼びかけておられるのです。
誕生寺を出た後は県道を中心に走りました。交通量の少ない県道を走るのが好きです。信号がほとんどなく、風景が変化に富んでいるところが多いのです。ただ、道路標識が少なく、今回も通行止めで迂回路ができていたりして、そのうちどこを走っているのかわけがわからなくなりました。
しかし、土地の起伏にそって曲がりくねった狭い道路をオートバイで走り抜けていくのは、楽しいものです。信号がないため一定の速度を保って延々と走り続けることができます。エンジン音とバイクの振動とに身を任せて走り続けていると、とても心地よく、一種のフローとかゾーンと言われる状態になります。
その心地よさは、何か大きなものと一緒になっている感じです。そういう状態になるには集中が大事で、難しすぎず、簡単すぎない動作を繰り返すのがよく、さらに気温、体調、天気などがぴたっとはまると、至福感にひたることができます。
<流れ>
流れていくものはなんだろう
わたしか?
わたしが流れそのものになっているのか
流れと溶け合っているのか
それはふるさとへ帰る感覚
はるかかなたに置いてきた
忘れていたあの感覚
ここにいるよずっと
流れはそう告げる
ここに来たときからずっとそばにいて
涙も笑いも怒りも静かに見守っていた存在
知らなかったのはわたしだけ
爽籟へいま旅立ちの法然像 優嵐
●法然上人・誕生寺を訪ねる(3)
誕生寺の境内には都へ向かって旅立つ15歳の法然の姿が彫像になっています。「爽籟(そうらい)」は秋風のさわやかな響きをさします。籟は三つの穴のある笛、または響きや声といった意もあります。
「月影の いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ」という法然の歌は阿弥陀如来の救いとそれを求める人の心を詠んでいます。月影が阿弥陀如来であり、すべての場所にあまねく到達する月の光に例えられています。しかし、それも求める人の心があってこそです。「わたしの名を呼びなさい、それを縁としてあなたを救いましょう」阿弥陀如来はそう呼びかけておられるのです。
誕生寺を出た後は県道を中心に走りました。交通量の少ない県道を走るのが好きです。信号がほとんどなく、風景が変化に富んでいるところが多いのです。ただ、道路標識が少なく、今回も通行止めで迂回路ができていたりして、そのうちどこを走っているのかわけがわからなくなりました。
しかし、土地の起伏にそって曲がりくねった狭い道路をオートバイで走り抜けていくのは、楽しいものです。信号がないため一定の速度を保って延々と走り続けることができます。エンジン音とバイクの振動とに身を任せて走り続けていると、とても心地よく、一種のフローとかゾーンと言われる状態になります。
その心地よさは、何か大きなものと一緒になっている感じです。そういう状態になるには集中が大事で、難しすぎず、簡単すぎない動作を繰り返すのがよく、さらに気温、体調、天気などがぴたっとはまると、至福感にひたることができます。
<流れ>
流れていくものはなんだろう
わたしか?
わたしが流れそのものになっているのか
流れと溶け合っているのか
それはふるさとへ帰る感覚
はるかかなたに置いてきた
忘れていたあの感覚
ここにいるよずっと
流れはそう告げる
ここに来たときからずっとそばにいて
涙も笑いも怒りも静かに見守っていた存在
知らなかったのはわたしだけ
コメント
コメント一覧 (2)
おお!僕も同じ体験があります♪
高野山へツーリングしたとき、クネクネと曲がるワインディング
ロードを登っていたら、人車一体の感覚になりました。
ほんと、優嵐さんの言われる通り、心地よいです♪
フローやゾーンの心境こそ、至福ですよね!
「月影の いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ」
という歌は初めて知りました。いい歌ですね♪
オートバイの魅力はあの感覚につきると思います。他にも楽しいことはいろいろありますが、あれこそ真髄じゃないかな、なんて。「人車一体」そうそう、そうなんですよね。