□◆□…優嵐歳時記(1984)…□◆□
秋晴れを走り続ける人のいて 優嵐
日曜はアートセラピーで大阪へ行っていました。しだいに前回のアートワークの振り返りやその後一ヶ月の間にあったことや気づきなどについて話す時間が長くなってきました。サインはいっぱいあるのですが、実はそれに気づくまでがなかなかだということがわかります。
あらゆることが恐らくそういうことになっていて、気づきというのは、気づいたときには「なぜこんなことに今まで気がつかなかったのだろう」というようなことがほとんどです。人生とか世の中とかの面白さというか、奇妙さというか、それはこの辺にあるのだろうと思います。
自分で自分の顔を見ることができないと先日書いたように、他の人からは丸見えであっても自分にはわからない、目の前にあっても、目に入っていても見えていないということがいろいろあるのです。そのことにさえ気づいていないのがほとんどで、自分が見ているように他人も世界を見ていると思い込んでいるのが大半の人間でしょう。
人間は顔を鏡に映すことはできても、自分の考え方やものの見方を鏡に映したり、ましてや自分の我を離れて自分を見るということなど、この世に生きている限りは絶対にできません。壁に向かって鎖で縛り付けられているようなものです。
<生きる意味>
自分のことが
本当に理解できるのは
たぶん
この世を去ったあとなのだろう
この肉体を離れて
この自我から自由になったとき
初めて自分という存在を
客観的に見る自由を手にする
だからといって
理解する努力を放棄していいわけじゃない
矛盾しているのだけれど
理解できないからこそ
理解しようとすることが大切
その間のあがきや苦闘や汗が
この世で生きる意味なのだ
秋晴れを走り続ける人のいて 優嵐
日曜はアートセラピーで大阪へ行っていました。しだいに前回のアートワークの振り返りやその後一ヶ月の間にあったことや気づきなどについて話す時間が長くなってきました。サインはいっぱいあるのですが、実はそれに気づくまでがなかなかだということがわかります。
あらゆることが恐らくそういうことになっていて、気づきというのは、気づいたときには「なぜこんなことに今まで気がつかなかったのだろう」というようなことがほとんどです。人生とか世の中とかの面白さというか、奇妙さというか、それはこの辺にあるのだろうと思います。
自分で自分の顔を見ることができないと先日書いたように、他の人からは丸見えであっても自分にはわからない、目の前にあっても、目に入っていても見えていないということがいろいろあるのです。そのことにさえ気づいていないのがほとんどで、自分が見ているように他人も世界を見ていると思い込んでいるのが大半の人間でしょう。
人間は顔を鏡に映すことはできても、自分の考え方やものの見方を鏡に映したり、ましてや自分の我を離れて自分を見るということなど、この世に生きている限りは絶対にできません。壁に向かって鎖で縛り付けられているようなものです。
<生きる意味>
自分のことが
本当に理解できるのは
たぶん
この世を去ったあとなのだろう
この肉体を離れて
この自我から自由になったとき
初めて自分という存在を
客観的に見る自由を手にする
だからといって
理解する努力を放棄していいわけじゃない
矛盾しているのだけれど
理解できないからこそ
理解しようとすることが大切
その間のあがきや苦闘や汗が
この世で生きる意味なのだ
コメント
コメント一覧 (6)
だから「他人」が居るのではないでしょうか♪他人は自分の
鏡のです★だから、その存在達に感謝するのですね♪
見せていただいてる「全て」は、自分自身のことを気付くため、
見せられてるよね!(^-^)v
他人は自分の鏡…か。確かに。自分自身のことを気づくために全てを見せてもらっている、と思えば、うん、腑に落ちることもいろいろあるし、怨んだり泣き言を言うこともないですよね。
> は、気づいたときには「なぜこんなことに今まで気がつかなか
> ったのだろう」というようなことがほとんどです。
なるほど!誰もがサインを見逃してしまうことが多いわけです
ね。もし、たくさんあるサインに、少しでも多く気付くことができ
れば、人生の展開も変わってくるのかしら。
自分の我を離れて自分を見るのは、もう悟りの境地!!
アートセラピーって、なんだか仏教の修行のようで、とても
奥が深いですね。
今後の報告も、楽しみにしてます♪
サインなんか無いとほとんどの人が思っているのですが、実はそうじゃないんだなあとようやく気づいている私です。ただ、すべてに時期があって必要なときまでわからないという部分もあるのかも、と思います。必要なときがきたらそれはおのずから展開していくのでしょう。
だから多分、「起きていることはすべて正しい」といえるのだと思います。この世的なフィルターでは把握しきれないなにかがあって、善悪やいい悪いということの判断は簡単には下せないものだと思うようになりました。
宗教的な修行の場でおこなわれるようなことは多分人間にとってとても大事なことなのだと思います。それが今は「ナントカ教」という狭い枠内にはおさまりきれなくなっているのでしょう。
サインがあることに、気付かれてとてもよかったです。今度はそれをどのように受け取っていくかが課題ですね。
「時期があって必要な時までわからない、必要な時がきたらおのずと展開する」と書いていますが、現代人にとっては、ほとんど皆無に等しいと思います。頭でサインがあることを理解しても受け取るアンテナをトレーニングして感度をよくしていかないといけないし、実は生まれた時からサインはずっと来ているんですよ。受け取れなくしているのは自分自身です。
昔は宗教がその役割をしていたのですが、現代においてはその役目は殆ど終えています。特別な状況下で行うのではなく、一般の生活の中でサインを受け取らなければ意味がないですよね。まだ在家ならわからなくもありませんが、在家で修業をしている人に余り出会ったことがないのでわかりません。
先日はありがとうございました。「おのずから展開していく」ということの前段階があって、「サインを受けとる準備が整っていたら」という前置きが必要でしたね。
ブロックしているのは自分自身だというのはわかります。ブロックしていることにさえ気づいていない。そこにまず気づければ登山口に立ったかな、という感じでしょうか。
多分、つらいことがあってそれをどこか他の人や外からやってくる出来事のせいにしているうちはなかなか気づけていないと言えるのでは、と感じます。指を自分に向けてみる、それができるとちょっと変るかな、と。