□◆□…優嵐歳時記(2096)…□◆□ 

  山裾に紅匂う梅開く   優嵐

アートセラピーの「模写」に参加するため大阪に行ってきました。このワークでは有名な画家の絵を模写します。これは技法習得を目的としたものではなく、人の意識や精神などを追体験して学び、同時に模写する人が何をどのようにとらえているかを明らかにする体験へと導いてくれます。

今日模写したのはキリストが十字架にかけられようとしている場面をレンブラントが描いたものでした。レンブラント特有の光と闇を際立たせるため、あえてモノクロにコピーした絵を見ながら、黒の用紙に白のパステルで光の部分を描いていきます。これが、想像以上に難しく、丸一日かかってしまいました。それでも完成にはほど遠い出来でした。

模写のワークのあと、参加者、講師の方を囲んでしばらくお茶を飲みながら話をしていました。ここでいろんな話をするのがこの場の楽しみでもあります。そこで気づかせていただくことも多いですし。今日は自分が話しながら「○○であった方が楽じゃないか」と何度も言っているのに気がつきました。

「楽」という言葉が頭の中で低く反響している中、帰りの電車の中で『完全なる証明』という本を読んでいました。2002年にポアンカレ予想を証明したグレゴーリー・ペレルマンというロシアの謎に包まれた数学者の伝記です。「どの子にも、その子だけの成功があり、障壁があり、失敗がある。それを語らせてやるのが、ルクシンの方針だったのだ。」という文が目に入りました。ルクシンというのはペレルマンを育てた指導者の名前です。

ふと、「おまえはそんなに楽をしたかったのか。楽であったら素晴らしい人生なのか。楽であったら学ぶこともそれに比例して少ないだろう。そんな人生を望んでいるのか」という声が聞こえた気がしました。そんなことを望んでいるわけじゃない、と自分の中で答える声も聞こえました。本当に望んでいるのは、何かを乗り越えて何かを見出すこと、それが何かはわからなくても、です。

これはシンクロニシティでしょうか。恐らくそうでしょう。今日自分の口から出た言葉、レンブラントのキリストの磔刑、たまたま持っていた本の中の一文、それらは普通に考えれば何の因果関係もないものです。けれど、今日の私はそこに重要な何らかのつながりを見ます。学びとは、こういうことではあるまいか、と最近思います。


<そんなことなのか>
苦と楽があれば
人は楽を選ぶだろう

まがりくねったでこぼこの道と
真っ直ぐで舗装された道があれば
人は後者を選ぶだろう

その方が自分にとって
都合がいいと思うから

だけど
あなたが望んでいるのは
そんなことなのか

山頂へヘリコプターで
降りたったなら
山登りをしたとは言えない

低い山でも自分の足で
踏みしめて登る
それが山を登るというこだ


今日の名言:あなたが余るほど持っていれば、それは他の人が足らなくなっていることを意味する。

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