□◆□…優嵐歳時記(2146)…□◆□
信号を待つ空のうえ初燕 優嵐
ようやくツバメが姿を見せてくれました。視界の端を影がよぎって、もしやと思い空を仰ぐと、電柱の上に二羽のツバメがいました。あの空気をひらりとすくっていくような軽やかな飛翔は、ツバメにしかできないものです。今年も来てくれたんだな、と顔がほころびました。これから九月初旬から中旬あたりまで、ツバメは日本で雛を育て、再び南へ帰っていきます。
6日、坂井泉水さんの誕生の「日」です。本日は『カナリヤ』を取り上げます。ZARDの9番目のシングル『もう少し、あと少し』(93.9.4)のカップリング曲です。楽曲の中での人称代名詞の変化に注目していただきたいと思います。
歌の最初は三人称の<彼女>で始まり、英語のフレーズをはさんで<あなた>に変わります。最初に<彼女>が使われていたのと同じ旋律で歌う「外は月の砂漠」以下の節には人称代名詞が使われていません。つまり、<あなた>の視点がそのまま継続されていると考えられ、楽曲の最後で再び<彼女>に戻ります。
ここで使われている<あなた>は二人称代名詞ではあるものの、主人公が自分自身に言い聞かせている二人称ととれます。「お前はよくやった、がんばった」などと呟くときに使う自分に向かって言う二人称です。日本語では面と向かって<あなた>を使うことはほとんどありません。もちろん、第三者からの<あなた>とも取れますが、その場合でもそれを主人公が内在化させているのです。
カナリヤ
もしかしたら日本語の人称代名詞の特徴をもっとも活かして使った作詞家が坂井泉水かもしれない、と思いました。この楽曲全体が短編映画のような趣を持っています。冒頭、<彼女>で描かれる部分ではカメラはひいていて、この歌のヒロインであるボーカリストの誕生日に起きた思いがけない悲しい別れを映し出します。最小限の言葉で状況を簡潔に語り、薔薇の花束という劇的で絵画的なものを配しているのに感心します。
その後、人称代名詞が<あなた>に変化した後は、ヒロインが自分を励ましているところへと変わっていきます。カメラはより彼女に近くなり、寄り添うように彼女の悲しみと苦悩と決意を映し出します。「あなたをみんな待ってる」「歌ってよ自分のために」…。最後に再び人称代名詞が<彼女>に変わります。まだ恋を失った傷を癒せないままの彼女、けれど彼女は新しく歩き出すだろう…その姿をカメラは映して余韻をもって終わります。
また、ここでは「12時のシンデレラ」と「歌を忘れたカナリヤ」という印象的なフレーズが使われています。俳句で言えば<季語>にあたる言葉です。その背後に多くの人が了解している有名な物語や歌があり、その共有イメージを歌の中に取り入れて楽曲の世界を広げています。伴奏はほぼピアノのみであり、そのシンプルさがさらに詞の世界を聴き手の心にしみいらせます。
信号を待つ空のうえ初燕 優嵐
ようやくツバメが姿を見せてくれました。視界の端を影がよぎって、もしやと思い空を仰ぐと、電柱の上に二羽のツバメがいました。あの空気をひらりとすくっていくような軽やかな飛翔は、ツバメにしかできないものです。今年も来てくれたんだな、と顔がほころびました。これから九月初旬から中旬あたりまで、ツバメは日本で雛を育て、再び南へ帰っていきます。
6日、坂井泉水さんの誕生の「日」です。本日は『カナリヤ』を取り上げます。ZARDの9番目のシングル『もう少し、あと少し』(93.9.4)のカップリング曲です。楽曲の中での人称代名詞の変化に注目していただきたいと思います。
歌の最初は三人称の<彼女>で始まり、英語のフレーズをはさんで<あなた>に変わります。最初に<彼女>が使われていたのと同じ旋律で歌う「外は月の砂漠」以下の節には人称代名詞が使われていません。つまり、<あなた>の視点がそのまま継続されていると考えられ、楽曲の最後で再び<彼女>に戻ります。
ここで使われている<あなた>は二人称代名詞ではあるものの、主人公が自分自身に言い聞かせている二人称ととれます。「お前はよくやった、がんばった」などと呟くときに使う自分に向かって言う二人称です。日本語では面と向かって<あなた>を使うことはほとんどありません。もちろん、第三者からの<あなた>とも取れますが、その場合でもそれを主人公が内在化させているのです。
カナリヤ
もしかしたら日本語の人称代名詞の特徴をもっとも活かして使った作詞家が坂井泉水かもしれない、と思いました。この楽曲全体が短編映画のような趣を持っています。冒頭、<彼女>で描かれる部分ではカメラはひいていて、この歌のヒロインであるボーカリストの誕生日に起きた思いがけない悲しい別れを映し出します。最小限の言葉で状況を簡潔に語り、薔薇の花束という劇的で絵画的なものを配しているのに感心します。
その後、人称代名詞が<あなた>に変化した後は、ヒロインが自分を励ましているところへと変わっていきます。カメラはより彼女に近くなり、寄り添うように彼女の悲しみと苦悩と決意を映し出します。「あなたをみんな待ってる」「歌ってよ自分のために」…。最後に再び人称代名詞が<彼女>に変わります。まだ恋を失った傷を癒せないままの彼女、けれど彼女は新しく歩き出すだろう…その姿をカメラは映して余韻をもって終わります。
また、ここでは「12時のシンデレラ」と「歌を忘れたカナリヤ」という印象的なフレーズが使われています。俳句で言えば<季語>にあたる言葉です。その背後に多くの人が了解している有名な物語や歌があり、その共有イメージを歌の中に取り入れて楽曲の世界を広げています。伴奏はほぼピアノのみであり、そのシンプルさがさらに詞の世界を聴き手の心にしみいらせます。
コメント
コメント一覧 (4)
「カナリア」という曲、ピアノの旋律がとても美しいですね。いろんな楽器の伴奏よりもピアノだけのほうがこの曲に合ってるかも♪それにしても、せつないメロディと歌詞ですね。もしかして、泉水さんご自身の体験かしら?偉大なアーティストほど哀しい経験をしてる方が多いですし。
泉水さんの高音部の声がとっても美しく、よけいに切ないですね。いい歌です、好きですね、こういうしっとりとしたメロディと歌詞は。季語にあたる言葉をちりばめる感性はスゴイと思います!
>いろんな楽器の伴奏よりもピアノだけのほうがこの曲に合ってるかも♪
本当にそうですね。私もそう思います。楽曲のアレンジが生きていますよね。ご自身の体験かどうかはわかりませんが、同じようなことを体験しても、それをダイヤモンドのように磨き上げることができるのが偉大なアーティストなんでしょうね。そして、人の心の琴線にふれることができる…。
この曲も名曲ですね。心にしみじみ染みこむような作詞とメロディーです。
僕も優嵐さんに教わって坂井泉水さんのアルバムは全部買ったので、iPodで全曲シャッフルしているとときどき坂井泉水さんの曲が出てきます。彼女は作詞に命を込めたので、ジャズですと歌詞がないので聞き流しますが、坂井泉水さんの曲では仕事の手を止めて聞き入ってしまいます。(^_^;
まるで自分の魂が外から自分の身体を見ていて、自分に対して二人称代名詞を使うこと、ありますね。自分を自分で励ますとき、自分で自分を褒めるとき、自分で自分に反省を促すとき、自分で自分に困難に立ち向かうように背中を押すとき・・・いろいろと僕も自分に向かって言い聞かせています。とても不思議でとても興味深い言語の使い方ですね。(^_-)-☆
教えるなんておこがましく、私自身も坂井泉水さんがこの世の人として活躍してらっしゃったころはほとんど知らなかったのです。何かのお引き合わせと感謝しています。ですから、シングル曲もカップリング曲もアルバムの曲もほとんど差がなく聴けます。シングルになっていなくても素晴らしい曲が多いんですよね。
「歌詞を大切にしてきた」と彼女はライブツアーで語っています。実際に集中して歌詞を聴いていると、それが単に言葉の上だけのことではなかったんだな、とわかりますね。日本語について教えられることが多いです。
言葉っておもしろいですよね。普段あたりまえに使っているので、それについて考えることはあまりに身近すぎで難しいのですが、こうして歌詞になっているものをあらためて見てみると、ああ、そうか〜と感じるところが多いです。