□◆□…優嵐歳時記(2170)…□◆□
降りだせば声高らかに昼蛙 優嵐
蛙は春の季語です。カエルとも読まれますが、カワズと読まれることが多いようです。今日の句も「ひるかわず」と読んでください。
さて、28日のblogに「季節が変わっていくその兆しを感じ取るときほど幸福感にみたされる瞬間はありません。(中略)人間同士のあれこれで得られる幸福感とは何か別の次元の喜びだと思えて仕方がありません」と書きました。29日の朝目が覚めた時、「因果律と外れているから」という声が聞こえました。
※因果律とは--ある事象A(原因)に引き続いて他の事象B(結果)が必然的・規則的に生ずるとき,AとBには因果関係があるといい,これを原理として立てるときこの法則を〈因果律〉とか〈因果〉という。--「コトバンク」
因果律と外れている? まだ半分眠っているような頭で思いをめぐらせていると、「感情というのは基本的に因果律から外れているものであり、自分が選び取っているものだ」ということが突然わかりました。
この世の物質的なことはすべて因果律に従います。朝は昼になり夜になります。生まれたものは成長・老化し、遅かれ早かれ必ず死にます。朝が突然夜になったり、生まれたものが永久に老化しなかったり死滅しないなどということはありません。そこには厳然とした因果律があります。
しかし、感情や考えはそういうものと違います。人は自分の中に起こってくる感情が何かによって引き起こされたと思いがちです。怒らせる、悲しませる、喜ばせるなどという言葉を私たちは当然のように口にします。しかし、実はこれが間違った考え方だということに気がつきました。
感情は私が選んでいるのです。たくさんある感情のカードの中から今はこの感情を選ぼうと決めてその感情を自分で手に取るのです。出来事と感情の間に因果律はありません。どれほど因果律があるように見えても実は違うのです。
私たちは感情を学習しているように思います。「こういうときはこういう感情を抱くべき」だといつの間にか学習し、それを選び取っているのです。人間同士の行動と感情の間には、あたかも因果律であるかのような関係が成り立ちやすくなっています。
季節の移り変わりを感じ取るときに大きな幸福感にみたされ、それが人間同士のあれこれで得られる幸福感とは次元が違うもののように感じられたのは、これが感情の因果律と思いこんでいたものから外れているからだと気がつきました。
ある感情が生まれるには、それにふさわしく思える何かがなければならないと私たちは思い込んでいます。喜びなら喜びを呼び起こす何か、腹立たしいなら腹立たしいと思わせる何か、です。それが自分の感情の引き金を引くと思っているのです。
これだと私たちは鈎でひっかけて水槽から吊り上げられる魚のようなものです。ある感情の鈎がきたら有無を言わさずその感情で吊り上げられ、自由はありません。これが「因果律」です。しかし、自分がその感情を選んでつかんでいるのだとしたら、いつでもそれを手放して自由になることができます。これが「因果律から外れる」ということです。
これは私にとっては結構大きな発見でした。明日もこのことについて考えてみたいと思います。
<錯覚・その2>
自我は錯覚だという
なぜそのような錯覚が生まれたのか
この世で生きていくためには
肉体がなければならない
肉体は生き残らなければならない
人間には強力な肉体的武器がない
生き残りのために発達した武器の一種が自我
自分のまわりは敵であり
得体の知れないものである
自我は記憶の中にデータを溜め込み
何かに出会う都度それを参照する
過去を参照しつつ未来に備える
戦うか逃げるか
自我は両刃の刃
己を守ると同時に外界と遮断する
自我は背中のザックのようなもの
未熟な人ほど荷物が大きくなる
あれもこれもと詰め込むから
人生は長距離の徒歩旅行
しなやかに素早く自由に歩くには
背中の荷物は軽い方がいい
最小限のものを工夫して使う
不要なものは捨て去ること
すべてのものは敵と怯えず
すべてのものの友であるように
今日の名言:敵のため火を吹く怒りも、加熱しすぎてはあなたが火傷する。
降りだせば声高らかに昼蛙 優嵐
蛙は春の季語です。カエルとも読まれますが、カワズと読まれることが多いようです。今日の句も「ひるかわず」と読んでください。
さて、28日のblogに「季節が変わっていくその兆しを感じ取るときほど幸福感にみたされる瞬間はありません。(中略)人間同士のあれこれで得られる幸福感とは何か別の次元の喜びだと思えて仕方がありません」と書きました。29日の朝目が覚めた時、「因果律と外れているから」という声が聞こえました。
※因果律とは--ある事象A(原因)に引き続いて他の事象B(結果)が必然的・規則的に生ずるとき,AとBには因果関係があるといい,これを原理として立てるときこの法則を〈因果律〉とか〈因果〉という。--「コトバンク」
因果律と外れている? まだ半分眠っているような頭で思いをめぐらせていると、「感情というのは基本的に因果律から外れているものであり、自分が選び取っているものだ」ということが突然わかりました。
この世の物質的なことはすべて因果律に従います。朝は昼になり夜になります。生まれたものは成長・老化し、遅かれ早かれ必ず死にます。朝が突然夜になったり、生まれたものが永久に老化しなかったり死滅しないなどということはありません。そこには厳然とした因果律があります。
しかし、感情や考えはそういうものと違います。人は自分の中に起こってくる感情が何かによって引き起こされたと思いがちです。怒らせる、悲しませる、喜ばせるなどという言葉を私たちは当然のように口にします。しかし、実はこれが間違った考え方だということに気がつきました。
感情は私が選んでいるのです。たくさんある感情のカードの中から今はこの感情を選ぼうと決めてその感情を自分で手に取るのです。出来事と感情の間に因果律はありません。どれほど因果律があるように見えても実は違うのです。
私たちは感情を学習しているように思います。「こういうときはこういう感情を抱くべき」だといつの間にか学習し、それを選び取っているのです。人間同士の行動と感情の間には、あたかも因果律であるかのような関係が成り立ちやすくなっています。
季節の移り変わりを感じ取るときに大きな幸福感にみたされ、それが人間同士のあれこれで得られる幸福感とは次元が違うもののように感じられたのは、これが感情の因果律と思いこんでいたものから外れているからだと気がつきました。
ある感情が生まれるには、それにふさわしく思える何かがなければならないと私たちは思い込んでいます。喜びなら喜びを呼び起こす何か、腹立たしいなら腹立たしいと思わせる何か、です。それが自分の感情の引き金を引くと思っているのです。
これだと私たちは鈎でひっかけて水槽から吊り上げられる魚のようなものです。ある感情の鈎がきたら有無を言わさずその感情で吊り上げられ、自由はありません。これが「因果律」です。しかし、自分がその感情を選んでつかんでいるのだとしたら、いつでもそれを手放して自由になることができます。これが「因果律から外れる」ということです。
これは私にとっては結構大きな発見でした。明日もこのことについて考えてみたいと思います。
<錯覚・その2>
自我は錯覚だという
なぜそのような錯覚が生まれたのか
この世で生きていくためには
肉体がなければならない
肉体は生き残らなければならない
人間には強力な肉体的武器がない
生き残りのために発達した武器の一種が自我
自分のまわりは敵であり
得体の知れないものである
自我は記憶の中にデータを溜め込み
何かに出会う都度それを参照する
過去を参照しつつ未来に備える
戦うか逃げるか
自我は両刃の刃
己を守ると同時に外界と遮断する
自我は背中のザックのようなもの
未熟な人ほど荷物が大きくなる
あれもこれもと詰め込むから
人生は長距離の徒歩旅行
しなやかに素早く自由に歩くには
背中の荷物は軽い方がいい
最小限のものを工夫して使う
不要なものは捨て去ること
すべてのものは敵と怯えず
すべてのものの友であるように
今日の名言:敵のため火を吹く怒りも、加熱しすぎてはあなたが火傷する。
コメント
コメント一覧 (4)
ぜひぜひ、考察を続けてください(^_^) このテーマは興味シンシンです、奥が深い♪ どこか仏教につながるような気がします。
このテーマについて今日も書きました。ところが、今朝もふとひらめきまして…。そうか!とひとりで納得しています。ひらめいたことをうまく言葉にするのがさらに難しいなと思っています。
なんていうのか、こういうことって、非常に単純なことなんですね。ひらめいたら「へーーーー、そういう考え方もあるか、いやはや、そういうものの見方って確かにあるなあ。なんでそんなことに私は気がつかなかったんだろう」と感じます。
こういうことが続いて、眠っているとき、意識はどこか別のところへ出かけているに違いないと確信しています。自分の頭では思いつきませんから。
いい季節になってきましたね。「木の芽時(このめどき)」というのはとくに精神科医が精神神経症状の患者の症状が変わり易い時期という意味で精神科で良く使われます。「何故なんですか?」と精神科医さんに聞くと、「いや〜、全然分かっていないんだけど木の芽時というのがあるんですよ」と言います。自然は人類が知っていることを遙かに上回る何かの力を持っているんですね。
今、優嵐さんがお薦めしていただいた、キュブラー・ロス氏の著作を3冊ほど読んでいます。霊的エネルギー、宇宙意志、死によって繭から蝶になる、僕は強烈に信じています。繭から蝶になるなんて、何て素晴らしいことなのでしょう。(^_^)
「木の芽時」、確かに、はるさんがおっしゃるような意味で使われますね。五月病などというのも、こういう自然のリズムが人間に影響するものかもしれません。潮の満ち干は人間の生死に関係するといいますし、人間はやっぱり考えているよりずっと自然の力を大きく受けているんですよね。
キューブラ・ロス氏、いいでしょう? はるさんにも共感していただいて、うれしいです。繭から蝶の話、初めて読んだ時とても感動したのを覚えています。こうした次元の話というのは、直接的な話よりこうした巧みなたとえや比喩を使って話されると深く納得できますね。