□◆□…優嵐歳時記(2171)…□◆□
稜線は木の芽の色にほぐれゆく 優嵐
春に芽吹く木の芽、「きのめ」とも言いますが、俳句では雅語的な響きから一般に「このめ」と詠まれます。葉芽、花芽、木の種類によって千差万別の木の芽です。特に雑木山の芽吹きの時期は緑、黄緑、萌黄、黄色、紅、薄茶、さらにそれらの濃淡さまざまが並び、美しいものです。
家の近くの山の標高は100m〜200mというあたりです。稜線に生えているのはコナラ、アベマキなどですが、この時期は葉芽が青空を背景に広がりはじめています。真夏になると葉が茂って稜線の向こうの空は見えなくなります。そして初冬になると葉が落ちて空が見えるようになり、真冬から春さきまでは樹木の枝の様子がスケルトンとなって残ります。
さて、昨日からの続きを書きます。次元の違う幸福感に満たされるのを初めて経験したのは、高校生のときでした。休日の校舎の前の坂道を、ひとり校門までゆっくり下っていたとき、いきなり何かもの凄い幸福感が襲ってきました。周りの景色が輝いているように見え、何がなんだかわからなくてただびっくりしていました。
ほんの一瞬だったのでしょうけれど、今でも鮮明に覚えているほどですから非常に新鮮な、感動的な体験だったのです。喜びとか幸福感というのは何かの原因があってそこから起こってくるもの、と普通は思われがちです。しかし、どうも違う種類のものがあるらしい、とこのときから思っていました。
その後も似たような経験は何度かありました。うまく説明できないのであまり話したことはないのですが、もしかしたら自我の選別ということを外せば、私たちはいつでもこの幸福感に入っていけるのかもしれないと感じています。
キリスト教で「神の愛」、仏教では「仏の慈悲」という言葉であらわされているのがこれじゃないか、と思うのです。「あなたは神に愛されています」などという言葉をきいても、いまひとつその「愛」という言葉がわかりませんでした。しかし、それは、私が人間の世界にある「欲、依存、快楽、打算」に侵食された<愛>しか思い描けないからなのでしょう。条件付の愛ですね。
けれど、この次元の違う幸福感というのは、私に何の条件も出しません。もしかしたら、これが「神の愛」というものかも、と今思っているのです。それは常にそこにあり、いつも私たちを取り囲んでいるのだけれど、私たち自身が自分のネガティブな感情の選択に忙しくてなかなかそれに気づけない。
もし、怒りや妬みや苛立ち、そうした感情を選ばず、積極的に手放すようにしたら、この「愛」はもっと容易に感じられるようになるかもしれないと思います。イエスは「柔和な人は幸いである」といい、ブッダは「怒りを制御せよ」と教えています。怒りを手放し柔和であることを選択すれば世界が変わる…。
<糸>
怒りはほつれ始めた糸のよう
気づいたら手当てをしよう
それ以上ほつれないように
変に引っ張るとほつれがひどくなる
すぐにかがっておけば
何事もなくおさまったものを
衝動にまかせて引っ張ると
糸は容赦なくほどけていく
お気に入りのセーターが
台無しになる
糸がほつれることは
いつだってある
誰のせいかなんて尋ねるよりも
さっと手当てをしてやろう
今日の名言:あなたの敵を許しなさい。しかし、名前を忘れてはなりません。
稜線は木の芽の色にほぐれゆく 優嵐
春に芽吹く木の芽、「きのめ」とも言いますが、俳句では雅語的な響きから一般に「このめ」と詠まれます。葉芽、花芽、木の種類によって千差万別の木の芽です。特に雑木山の芽吹きの時期は緑、黄緑、萌黄、黄色、紅、薄茶、さらにそれらの濃淡さまざまが並び、美しいものです。
家の近くの山の標高は100m〜200mというあたりです。稜線に生えているのはコナラ、アベマキなどですが、この時期は葉芽が青空を背景に広がりはじめています。真夏になると葉が茂って稜線の向こうの空は見えなくなります。そして初冬になると葉が落ちて空が見えるようになり、真冬から春さきまでは樹木の枝の様子がスケルトンとなって残ります。
さて、昨日からの続きを書きます。次元の違う幸福感に満たされるのを初めて経験したのは、高校生のときでした。休日の校舎の前の坂道を、ひとり校門までゆっくり下っていたとき、いきなり何かもの凄い幸福感が襲ってきました。周りの景色が輝いているように見え、何がなんだかわからなくてただびっくりしていました。
ほんの一瞬だったのでしょうけれど、今でも鮮明に覚えているほどですから非常に新鮮な、感動的な体験だったのです。喜びとか幸福感というのは何かの原因があってそこから起こってくるもの、と普通は思われがちです。しかし、どうも違う種類のものがあるらしい、とこのときから思っていました。
その後も似たような経験は何度かありました。うまく説明できないのであまり話したことはないのですが、もしかしたら自我の選別ということを外せば、私たちはいつでもこの幸福感に入っていけるのかもしれないと感じています。
キリスト教で「神の愛」、仏教では「仏の慈悲」という言葉であらわされているのがこれじゃないか、と思うのです。「あなたは神に愛されています」などという言葉をきいても、いまひとつその「愛」という言葉がわかりませんでした。しかし、それは、私が人間の世界にある「欲、依存、快楽、打算」に侵食された<愛>しか思い描けないからなのでしょう。条件付の愛ですね。
けれど、この次元の違う幸福感というのは、私に何の条件も出しません。もしかしたら、これが「神の愛」というものかも、と今思っているのです。それは常にそこにあり、いつも私たちを取り囲んでいるのだけれど、私たち自身が自分のネガティブな感情の選択に忙しくてなかなかそれに気づけない。
もし、怒りや妬みや苛立ち、そうした感情を選ばず、積極的に手放すようにしたら、この「愛」はもっと容易に感じられるようになるかもしれないと思います。イエスは「柔和な人は幸いである」といい、ブッダは「怒りを制御せよ」と教えています。怒りを手放し柔和であることを選択すれば世界が変わる…。
<糸>
怒りはほつれ始めた糸のよう
気づいたら手当てをしよう
それ以上ほつれないように
変に引っ張るとほつれがひどくなる
すぐにかがっておけば
何事もなくおさまったものを
衝動にまかせて引っ張ると
糸は容赦なくほどけていく
お気に入りのセーターが
台無しになる
糸がほつれることは
いつだってある
誰のせいかなんて尋ねるよりも
さっと手当てをしてやろう
今日の名言:あなたの敵を許しなさい。しかし、名前を忘れてはなりません。
コメント
コメント一覧 (4)
私も似たような経験があります。私の場合は何かから解放されたときが多いようですけれど。
この幸福感に浸れるコツをつかめたら、栄養ドリンクとか必要なくなりそう。
>しかし、名前を忘れてはなりません。
これって決してお人よしにはなるな、ってことですよね
>私も似たような経験があります。
おお!そうですか。よかった〜。共感していただける方があって。
>この幸福感に浸れるコツをつかめたら、栄養ドリンクとか必要なくなりそう。
確かに。もしかしたら麻薬に溺れるような人はそのときそういう感覚を持ってしまったのかも。クスリに頼らずにこうした状態に入るために瞑想とかヨガとかそういうのがいろいろあるのじゃないかな、と思います。
>お人よしにはなるな
おそらくそうでしょうし、次回は警戒せよ、同じ失敗をするなということでもあるのかな、と思います。
ひょっとしたら、ティク・ナット・ハンのマインドフルネスと関係がありそう。ネガティブな想いなど、なにか余計な思考や思い込みが頭になると、「常にそこにある」幸福に気付かないと。因果関係や論理などが頭から消えてクリーンなときに幸福に気付くのかしら。あらゆる「条件」には関係なく、本来は幸福なんだと♪
常にそこにある、というのは私にとっても「そうか〜」という気づきでした。こういうものは本当はそこにあるのだけれどなぜか見えない、感じられないのがほとんどです。「そこにある」といわれても、そんなもの無いじゃないか、と否定してしまう。探しに行くから見つからないというか…。
この辺りも自我がトラップになっているなと思います。自我は、問題があったほうが自分の存在意義が発揮できるので常に問題を探そうとしますよね。何もないところにさえ問題を予見してそれに備える。
「生き残り」ということが実は二律背反の根元かな、と思います。本当は生き残るということは無い、というか、もともと根本の私たち自身は「生まれていないから死にもしない」のです。ある意味で死ぬのは「自我」だけですよね。そして、自我と私たち自身とは同じものではない。自我は私たちが着ている衣服のようなものでしょう。