□◆□…優嵐歳時記(2172)…□◆□

  軽やかに揺れし苗木の八重桜   優嵐

増位山の頂のすぐ下に山陽自動車道が見えます。西行き車線にほとんど停まったままの自動車が数珠繋ぎでならんでいました。ゴールデンウイークの渋滞のすさまじさを眼下に見て、やはりこの時期に自動車で出かけるのは無謀だと感じました。山の上には誰もおらず緑と光と風があふれています。

次元の違う幸福感についてもう少し話を続けます。山を歩きながらこれについて考えていて、ふと「臨死体験」のことを思い出しました。臨死体験というのは、瀕死の重態に陥った人が、命が助かった後、報告する不思議な体験のことです。

臨死体験をした人は誰もが「非常な幸福感とやすらぎに包まれ、あれなら死ぬのは怖くない」と言います。私は臨死体験をしたことはありませんが、昨日触れた高校時代の記憶を思い起こしていて、ほんの少し臨死体験に似ている、と気がついたのです。もちろん、経験の内容は比べ物にならないでしょうし、すべては内的な経験であり比較することはできません。

ただ、臨死体験というのは、「何か」が自我から完全に解き放たれたときに感じる例えようもないほどの解放感なのではないか、と感じたのです。自我は中世の騎士が身にまとう鎧のようなものでしょう。重く頑丈で外界と自身を遮断し、中にいる人は兜の隙間からようやく外を覗き見るだけです。

それを一気に脱ぎ捨てたときに感じるものが、臨死体験者が報告する幸福感ではないでしょうか。似たものは熟達した瞑想者の<三昧>や、スポーツ選手などが報告する<ゾーン><フロー>と呼ばれる状態です。これは客観的に計測できるものではありませんが、こうした精神状態、意識状態が存在することは確実です。


<大いなる意識>
別々の魂というものはない
私たちはそれぞれが「大いなる意識」から
三次元へと開かれた小さな窓だ
その窓を通して意識は経験をする

意識は神とも仏とも
数知れぬ名でよばれてきた
私たちひとりひとりが
神であり仏である

物質があって意識が生まれるのではない
意識が手段として物質を生んでいる

開かれた窓が閉じられるとき
肉体は消滅し
私たちは元の場所へ帰還する
分離された状態を終えて
統合された本来の状態へと帰る

三次元にいるときも
つながりは保たれている
自分の内側に耳を澄ましてみれば
そのつながりに気づくはずだ
決して途切れることはない

だからすべてはつながっている
あの人もこの人も
地上に存在するすべてのものと
つながっている

窓の数がいくつあろうと
本来同じものの異なる側面だ


今日の名言:君の前途がどうぞ多難でありますように。多難であればあるほど、実りは大きい。


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