□◆□…優嵐歳時記(2173)…□◆□
陽に少し曲がりてつんと松の芯 優嵐
昨日は八十八夜でした。晩春には松も新芽を出します。これを「若緑」「初緑」「松の芯」と言います。いっせいに細長い緑の芽がまっすぐに天を指して伸びるさまには勢いがあります。八重桜以外の桜はほぼ散りましたが、遅咲きのオオシマザクラと思われるものがまだ花をつけています。
昨日の散歩は、増位山方面ではなく峰続きの弥高山から広峰神社を回ってきました。播磨空港の建設予定地でしたが、計画は凍結され、雑木山の山歩きを楽しむことができます。
先日からの続きをもう少し書きます。人間の悲しさは因果律を取り違えているところから来るのかもしれないと思います。つまり、因果律であるものを因果律と認められず、因果律でないものを因果律と思い込んでいるということです。この世の物質界のものはすべて因果律に従って動きます。生まれたものは必ず老い、死にます。
その因果律をはっきり理解していないから老いを嘆き死を嘆きます。若さに執着し、アンチエイジングに励み、不治の病と診断されたら「どうして私が」とうろたえます。しかし、どんな健康法を実践しようと、どれほど医療が発達しようと、ひとりの例外も無く老い死ぬ、これほどはっきりした因果律はありません。死因が何か、いくつで死ぬかなどというのはそれに付随したことにすぎません。
逆に物質でない感情や考えは因果律から自由でいられます。自分がそれを選択していると自覚すれば手放すことが可能です。老いや死という絶対の因果律からなんとか逃れようともがき、逃れられるはずの怒り、妬み、憎しみ、恨みといったものを因果律と思い込んで後生大事に抱え込んでいる…。これは一種の餓鬼道ではあるまいか、とわが身を振り返って思うのです。
<空間>
ある人たちは「科学」と呼ばれる物質で
意識が測れると思い込んでいる
測れないためにそれは存在しないとすら
言い出している
意識はあなたが座っている
部屋の空間のようなものだ
それはそこにある
あなたがいようがいまいが
そこにその空間があるからこそ
あなたはそこに座っていられる
もし空間がなければ
あなたはそこに存在することができない
空間をつかみとることができるだろうか
空間の広さを計測することはできる
けれど空間そのものを実体として
つかみとることは誰にもできない
陽に少し曲がりてつんと松の芯 優嵐
昨日は八十八夜でした。晩春には松も新芽を出します。これを「若緑」「初緑」「松の芯」と言います。いっせいに細長い緑の芽がまっすぐに天を指して伸びるさまには勢いがあります。八重桜以外の桜はほぼ散りましたが、遅咲きのオオシマザクラと思われるものがまだ花をつけています。
昨日の散歩は、増位山方面ではなく峰続きの弥高山から広峰神社を回ってきました。播磨空港の建設予定地でしたが、計画は凍結され、雑木山の山歩きを楽しむことができます。
先日からの続きをもう少し書きます。人間の悲しさは因果律を取り違えているところから来るのかもしれないと思います。つまり、因果律であるものを因果律と認められず、因果律でないものを因果律と思い込んでいるということです。この世の物質界のものはすべて因果律に従って動きます。生まれたものは必ず老い、死にます。
その因果律をはっきり理解していないから老いを嘆き死を嘆きます。若さに執着し、アンチエイジングに励み、不治の病と診断されたら「どうして私が」とうろたえます。しかし、どんな健康法を実践しようと、どれほど医療が発達しようと、ひとりの例外も無く老い死ぬ、これほどはっきりした因果律はありません。死因が何か、いくつで死ぬかなどというのはそれに付随したことにすぎません。
逆に物質でない感情や考えは因果律から自由でいられます。自分がそれを選択していると自覚すれば手放すことが可能です。老いや死という絶対の因果律からなんとか逃れようともがき、逃れられるはずの怒り、妬み、憎しみ、恨みといったものを因果律と思い込んで後生大事に抱え込んでいる…。これは一種の餓鬼道ではあるまいか、とわが身を振り返って思うのです。
<空間>
ある人たちは「科学」と呼ばれる物質で
意識が測れると思い込んでいる
測れないためにそれは存在しないとすら
言い出している
意識はあなたが座っている
部屋の空間のようなものだ
それはそこにある
あなたがいようがいまいが
そこにその空間があるからこそ
あなたはそこに座っていられる
もし空間がなければ
あなたはそこに存在することができない
空間をつかみとることができるだろうか
空間の広さを計測することはできる
けれど空間そのものを実体として
つかみとることは誰にもできない
コメント
コメント一覧 (2)
いつまでも嘆いたり悲しんだりし過ぎる人は厭ですけれど、いつまでもきれいでありたいと努力している女性はかわいいなあと思うんですよね、私。でも、まあ、こちらも、そればっかりの激し過ぎは困りものですけれど。
煩悩があるからこの世に生きているともいえますよね。それが全部消えてしまったら「解脱」ということで、この世で生きて苦労する必要はない(笑)