□◆□…優嵐歳時記(2174)…□◆□
竹林を八十八夜の風渡る 優嵐
ゴールデンウイークに入ってから晴天が続いています。昨日は一昨日の散歩と同じコースを逆周りで歩いてきました。広峰神社から弥高山に至る森はほぼ平坦で、コナラやアベマキ、カエデといった落葉樹の明るさは素晴らしく、とても豊かなひとときを過ごすことができました。
因果律から思いついたことをもう少し書いてみたいと思います。仏教では「人生は苦である」と説き、その代表を「生老病死」としています。いずれも因果律です。筆頭に「生」が来ているのは、生という因があればこそ、後の三つの苦が起こると考えれば納得できます。ここでいう苦とは「思うに任せないもの」という意味だそうです。
思うに任せないものを思うままにしたいと執着するのが煩悩です。逆に本来は因果律から外れているはずの感情を手放せないことも煩悩でしょう。ここで、観音経のことを思い出しました。観音経は法華経の中のお経です。観音菩薩(梵名:アヴァローキテーシュヴァラ)は現世利益の仏とされ、広く信仰されています。
観音経にはその功徳が述べられており、観音菩薩の名を唱えさえすれば火難・水難・盗賊をはじめとする七難からことごとく逃れられると書いてあります。そのまま読めば荒唐無稽な話ですが、この「難」を内側からの煩悩と解釈すれば理解できるように思います。
怒り、妬み、恨み、憎しみといった感情は、それを向けられた相手を傷つけますが、それと同じかそれ以上にその感情を抱き続けている人を傷つけます。「人を呪わば穴二つ」です。しかし、なかなかその感情を手放すことができないのもまた人間です。そんなときに助けを求める存在として観音菩薩がいらっしゃると考えられないでしょうか。
現世利益といっても、観音菩薩は商売繁盛や結婚や進学・就職を助けるといった、世俗的な利益をもたらしてくださる仏ではないと思います。どうしてもふっきれない煩悩の中でもがき苦しんでいる人が、「どうかここから救ってください」とお願いする。そしてそれに応じて自在に姿を現してくださる、それが観音さまじゃないかと思うんですね。
煩悩にとらわれてしまう自分という弱い存在、それを認めつつ、その私をどうかこの現世において救ってください---観音菩薩への祈りはそれが最もふさわしいのではないでしょうか。どのように救うかは観音菩薩がお決めになるでしょう。
<気づき>
気づきというのは
自分の足の下に大地がある
自分の頭の上に空がある
そういうことに
気づくということだ
気づきというのは
自分の心臓が動いている
自分の網膜が光をとらえている
そういうことに
気づくということだ
気づきというのは
自分が言葉を発している
自分の名前が呼ばれる
そういうことに
気づくということだ
今日の名言:君は今までなんと素晴らしい生活を送ってきたことか!そのことに、もっと早く気がつけばよかった。
竹林を八十八夜の風渡る 優嵐
ゴールデンウイークに入ってから晴天が続いています。昨日は一昨日の散歩と同じコースを逆周りで歩いてきました。広峰神社から弥高山に至る森はほぼ平坦で、コナラやアベマキ、カエデといった落葉樹の明るさは素晴らしく、とても豊かなひとときを過ごすことができました。
因果律から思いついたことをもう少し書いてみたいと思います。仏教では「人生は苦である」と説き、その代表を「生老病死」としています。いずれも因果律です。筆頭に「生」が来ているのは、生という因があればこそ、後の三つの苦が起こると考えれば納得できます。ここでいう苦とは「思うに任せないもの」という意味だそうです。
思うに任せないものを思うままにしたいと執着するのが煩悩です。逆に本来は因果律から外れているはずの感情を手放せないことも煩悩でしょう。ここで、観音経のことを思い出しました。観音経は法華経の中のお経です。観音菩薩(梵名:アヴァローキテーシュヴァラ)は現世利益の仏とされ、広く信仰されています。
観音経にはその功徳が述べられており、観音菩薩の名を唱えさえすれば火難・水難・盗賊をはじめとする七難からことごとく逃れられると書いてあります。そのまま読めば荒唐無稽な話ですが、この「難」を内側からの煩悩と解釈すれば理解できるように思います。
怒り、妬み、恨み、憎しみといった感情は、それを向けられた相手を傷つけますが、それと同じかそれ以上にその感情を抱き続けている人を傷つけます。「人を呪わば穴二つ」です。しかし、なかなかその感情を手放すことができないのもまた人間です。そんなときに助けを求める存在として観音菩薩がいらっしゃると考えられないでしょうか。
現世利益といっても、観音菩薩は商売繁盛や結婚や進学・就職を助けるといった、世俗的な利益をもたらしてくださる仏ではないと思います。どうしてもふっきれない煩悩の中でもがき苦しんでいる人が、「どうかここから救ってください」とお願いする。そしてそれに応じて自在に姿を現してくださる、それが観音さまじゃないかと思うんですね。
煩悩にとらわれてしまう自分という弱い存在、それを認めつつ、その私をどうかこの現世において救ってください---観音菩薩への祈りはそれが最もふさわしいのではないでしょうか。どのように救うかは観音菩薩がお決めになるでしょう。
<気づき>
気づきというのは
自分の足の下に大地がある
自分の頭の上に空がある
そういうことに
気づくということだ
気づきというのは
自分の心臓が動いている
自分の網膜が光をとらえている
そういうことに
気づくということだ
気づきというのは
自分が言葉を発している
自分の名前が呼ばれる
そういうことに
気づくということだ
今日の名言:君は今までなんと素晴らしい生活を送ってきたことか!そのことに、もっと早く気がつけばよかった。
コメント
コメント一覧 (2)
Amazonのこの本のページに行ったら、まだ読者のコメントがなく、その下に『「平穏死」のすすめ 口から食べられなくなったらどうしますか 』(講談社)という本が紹介されており、思わずそちらを見てしまいました。
生きるのも死ぬのもなかなかに「苦」であるなあ、と思いますね。末期になって延命に執着するのもひとつの煩悩かもしれません。自分の死は自分でどうこうできるものではありませんが、不自然に人工的に生かされてしまうのもなあ、と思え医療が発達したらしたで苦が減るかとおもいきや、昔は考えられなかったような苦が生まれるものですね。