□◆□…優嵐歳時記(2175)…□◆□

  八重山吹過ぎれば古き土塀かな   優嵐

今日は立夏です。半月ほど前まで炬燵が必要なほど寒い日があったのに、昨日は半袖のポロシャツで過ごす陽気になりました。この春は、ほどよいのどかな春のお天気というのがあまり無かったように思います。

因果律から気づいたことをこのところ書いています。ひとつ何かに気がつくとその周辺のことが連鎖反応的に掘り起こされてきます。昨日は「観音菩薩の現世利益」について書きました。昨年、法然と浄土仏教の信仰について何冊か本を読みました。

浄土仏教は絶対他力の信仰です。凡夫たるわれわれには修行という自力で救われる道はないと見定め、「南無阿弥陀仏」と唱えることによって阿弥陀さまと縁を結びます。そして、この世を去ったあと、阿弥陀如来の力によって極楽浄土に往生し、そこで仏になる修行をして成仏し、次は他の人を救うためにこの世に戻ってきます。そうした他力本願と往還が浄土仏教のおおまかな思想だと私は理解しました。

観音菩薩は勢至菩薩とともに阿弥陀如来の脇持仏です。観音菩薩の現世利益というのは、阿弥陀如来の「浄土への救い」と一対になっているものではないか、と気がつきました。浄土仏教では悪人正機、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という『歎異抄』の言葉(これは法然の言葉だと言われています)が有名です。

この世での自分の悪を自覚し、それにおののいている人を阿弥陀仏は真っ先に救うという思想です。悪を自覚するのは苦しいことです。悪を自覚しつつそれでもそこから抜けられない、怒りや貪りから逃れられない、それが人間です。そして、阿弥陀仏の救いに先立って、現世における自分の悪に苦しむ人を救うために現れる仏が観音菩薩なのではないでしょうか。

外的な援助や助言・忠告は現世を生きている人間にもできます。しかし、その人を内面から変える力は「神仏」という名で呼ばれるものしか持ち得ないと思います。その人の内側からその人に呼びかけ、私はここにいる、あなたを支えている、いつでもともにいる、と直感を通じて知らせることができるのは、そうした存在だけです。

神仏が与えられる現世利益とは、そういう形でしかありえないでしょう。その人の心に直接語りかけるという、現実の人間にはとうてい成しえないことであるからこそ、人間は感激し真実を悟るのです。理屈ではないリアリティがそこにあります。

観音菩薩は多くの仏像彫刻になっていますが、あれは観音菩薩の霊力を象徴的に示したものであり、観音菩薩があのような姿形をしているというのではありません。だから、本当のところをいえば別にお寺や特別な場所に出かけていかなくてもどこでも観音菩薩にめぐり合うことはできる、と思います。観音菩薩(観自在菩薩)の名前は「人々の声を聞き、自在に姿を現してくださる菩薩」という意味です。

さらに進めていえば、観音菩薩の名前や仏教というものを知らなくても「観音菩薩と仏教で呼ぶところの何か」に出会うことは可能でしょう。他の宗教ではおそらく他の名前がつけられていると思います。神仏の名は同じひとつの「何らかの働き」に人間が便宜上つけた名前に過ぎないと思うからです。


<時間と自我>
そこに時間はない
時間とは自我の別名だ
時間から自由になるとき
私たちは自我からも自由になる

分離から統合へと戻るとき
仮の世から本来の場所へ戻るとき
時間は消え自我は消える
そこにあるのは
大いなる意識と永遠の今


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