□◆□…優嵐歳時記(2182)…□◆□
竹の子の志いま空にあり 優嵐
とても不思議な夢を見ていました。私は外の宇宙と内側の宇宙の中間地点に立っています。この宇宙は文字通り外は私の意識の外の世界、内側は私の内的世界です。どちらも同じように広大で、その両側の宇宙が私のところでちょうど砂時計のくびれのように収束しているのです。
私はそこに立っている一粒の砂のようであり、前後に固定された格子のようなものがあって、どちらへも行けないようになっています。自分の中というか、周囲を通って時間とか何かもろもろのものが流れている感覚があります。けれどそれを別の場所から見ている自分もいます。
この世に生きているというのはこういうことなんだな、と別世界の私が格子の中にいる自分を見ています。前にも後にも行けず、ただ砂時計のくびれの部分で外側を眺めながら立っています。内側を見ていないというところがポイントですね。ただ、別の視点にいる私はその砂時計状の空間が外と内のように見えながら実はつながっているということも理解しています。
この空間をどのように説明すればいいのでしょうか。三次元の立体構造ではありえない形状です。砂時計のトップとボトムが最終的にはつながっているような構造物をイメージしていただくといいのですが。どこか一ヶ所でつながっているというのではなく、拡大していった先がすべて最終的につながっているような空間です。
外の世界が広大であるのと同時に、内的世界も同じように広大です。そのすべてがいっしょになって全宇宙なんだとわかりました。こういうとき、言葉というのは不自由だなと痛感しました。自分が見たイメージをうまく伝えられる言葉が見つからないのです。同時に、これは言葉では伝えきれないものなんだろうな、とも思いました。
<感謝の祈り>
いちばん身近で簡単な感謝の祈りを発見した
「いただきます」と「ごちそうさま」
日々の食事の前後に手を合わせ
この言葉を唱える
子どもの頃教えられたけれどいつしか忘れていた
「いただきます」と誰に向かって言うのか
食卓に登ってくれたすべての命に
命を食べものとして整えてくださった人すべてに
そしてその大きなつながりに
さらに
食べることを可能にしている自身の命に
今は私の命だけれど
これは私が生み出したものでも維持しているものでもない
全身の生体機能が滞りなく動いているのは
この宇宙の自然の力によるものだ
与えられ生かされている
それらすべてに感謝の祈りを
それが「いただきます」と「ごちそうさま」
竹の子の志いま空にあり 優嵐
とても不思議な夢を見ていました。私は外の宇宙と内側の宇宙の中間地点に立っています。この宇宙は文字通り外は私の意識の外の世界、内側は私の内的世界です。どちらも同じように広大で、その両側の宇宙が私のところでちょうど砂時計のくびれのように収束しているのです。
私はそこに立っている一粒の砂のようであり、前後に固定された格子のようなものがあって、どちらへも行けないようになっています。自分の中というか、周囲を通って時間とか何かもろもろのものが流れている感覚があります。けれどそれを別の場所から見ている自分もいます。
この世に生きているというのはこういうことなんだな、と別世界の私が格子の中にいる自分を見ています。前にも後にも行けず、ただ砂時計のくびれの部分で外側を眺めながら立っています。内側を見ていないというところがポイントですね。ただ、別の視点にいる私はその砂時計状の空間が外と内のように見えながら実はつながっているということも理解しています。
この空間をどのように説明すればいいのでしょうか。三次元の立体構造ではありえない形状です。砂時計のトップとボトムが最終的にはつながっているような構造物をイメージしていただくといいのですが。どこか一ヶ所でつながっているというのではなく、拡大していった先がすべて最終的につながっているような空間です。
外の世界が広大であるのと同時に、内的世界も同じように広大です。そのすべてがいっしょになって全宇宙なんだとわかりました。こういうとき、言葉というのは不自由だなと痛感しました。自分が見たイメージをうまく伝えられる言葉が見つからないのです。同時に、これは言葉では伝えきれないものなんだろうな、とも思いました。
<感謝の祈り>
いちばん身近で簡単な感謝の祈りを発見した
「いただきます」と「ごちそうさま」
日々の食事の前後に手を合わせ
この言葉を唱える
子どもの頃教えられたけれどいつしか忘れていた
「いただきます」と誰に向かって言うのか
食卓に登ってくれたすべての命に
命を食べものとして整えてくださった人すべてに
そしてその大きなつながりに
さらに
食べることを可能にしている自身の命に
今は私の命だけれど
これは私が生み出したものでも維持しているものでもない
全身の生体機能が滞りなく動いているのは
この宇宙の自然の力によるものだ
与えられ生かされている
それらすべてに感謝の祈りを
それが「いただきます」と「ごちそうさま」
コメント
コメント一覧 (2)
不思議な、そして暗示的な夢を見られましたね。
>外の世界が広大であるのと同時に、内的世界も同じように広大です。そのすべてがいっしょになって全宇宙なんだとわかりました。
宇宙は3次元と時間を含めて4次元であるとしか人間は認識できませんが、実は11次元で成り立っていて、宇宙内の全てのものは11次元のひも(超ひも理論)かMembraneという膜(M理論)によると、11次元のうち4次元以外の残りの7次元は、我々が見ているリンゴもコップも人も山も実は見えない11次元が括られていて、そのうち4次元だけが見えていると言われています。見えているものよりも見えていないものの方が圧倒的に多く、見えていないから存在しないという唯物論は根底から覆されようとしていますね。
11次元に括られて、天国にいる僕の愛するゴールデンレトリバーのベティーも僕のすぐ眼の前にいて、宇宙の果ても僕のすぐ眼の前にあって、他界した愛する友人や尊敬する人も僕のすぐ目の前にいて、仏陀様や孔子様もすぐ目の前にいらっしゃるのではないかと思います。E・キューブラー・ロス氏が指摘しているように、生きていても死んでいても何の差もなくて、いつも我々は孤独ではなく無条件な愛に包まれているのだと思います。
宇宙は11次元という話、本で読んだことがあります。この話を読んだとき、超常現象とか神秘体験というのを科学的に説明するには、ここかな、と思いました。どれだけ科学者が否定しようとしても、やっぱりこういう不思議な話というのはあって、一度経験してしまうと、否定のしようがない。あれは「三次元+時間の矢の世界」に何らかのズレが生じて11次元世界が漏れ出してくるのではないかな、と思っていました。
夢もそのひとつで、夢の中では私たちは11次元世界へ一時的に里帰りしているのではないかと思うのです。「死後の世界」といってもいいかもしれません。この世を生きているというのは、比喩的に言うと、あるルールに縛られたスポーツの試合場に入っているようなものです。試合場を出ればそういうものからはすべて自由になれる、だけど試合場にいる間はそれが一番重要な関心事になっている…、そんな感じです。
天国がすぐ身近にあるというのは、だから本当だと思います。亡くなった方は三次元の束縛から解放されて、いつでも自由にそれらの間を行き来する世界に入っている、そんな気がします。