□◆□…優嵐歳時記(2195)…□◆□

   森影の濃くなる不如帰鳴けば   優嵐

ホトトギスはカッコウ科の鳥です。鳴声は「テッペンカケタカ」「トウキョウトッキョキョカキョク」などと聞きなされ、古くから日本人に親しまれてきました。「時鳥」「不如帰」「子規」と当てる漢字もたくさんあります。その大きな鋭い声を聞くと、夏だなあと思います。

さて、昨日の「汝自身を知れ」についてもう少し考えてみました。「汝自身を知れ」はデルポイのアポロン神殿の入口に刻まれた古代ギリシアの格言です。さまざまな解釈があるようですが、私はこれを次のふたつと解釈しました。

第一は、「外側の世界に映った自分の姿を見て自分自身を知ること」、これは先日から書いていることそのままです。外界は自分の心の投影であり、それに惑わされず、それを己の心を知る道具として使い、さらには自己制御の用具とすることです。

第二は、「内側に入りその経路を使ってその先に広がる無限の叡智につながること」、昨年からの経験を通して、人間には外側との関係以上に、自身の内側との関係が重要だと悟るようになりました。私は今この現実の私として存在していますが、肉体が先にあるのではなく、内側の「何か」の方が先であり、それだけが永続するコアです。「何か」はなんらかの経験をするためにわざわざ肉体を持ったのです。

そして、その「何か」が本来の故郷とつながる通信経路は、内側にしかありません。外のどんな書物にも情報にもそれは書いてありません。書いてあってもそのままでは理解できないのです。つまり、叡智は内側にしかない、内側を通らないと理解できない、ということです。静かに内側に入り、その向こうからやってくる声に耳を澄まします。

霊的な智慧の教えは必ずそのことに触れています。あなたの内側に神や仏がいる、と。それが何のことかなかなかわからなかったのですが、ようやく、このことなんだと実感できるようになってきました。私が求めたのではなく、向こうからドア叩いてくれた、というのが真実に近いです。

昨年の二月から三月にかけて突然それが起こって、物事に対する考え方が大きく変わりました。それで終りだと思っていたら、それが始まりで、まだまだこれから大きく変わっていきそうです。人間が一度に受容できる智慧というのは非常に限られているのだと思います。

プールの水を一度にコップに注ぐことができないように、飲み干せる分だけ徐々に送られてくるのです。そして、叡智は果てしないほど大きく、とても人間のただ一度の人生ですべてを知ることはできませんし、その必要もないでしょう。


<請求書>
死後の世界があるかないかについて
いまだに議論はつきない

考えてみると
死んで何もなくなってしまうより
肉体は捨てられても決して死なない
自己意識は永遠に生きつづけるという方が
ある意味怖ろしい世界ではないだろうか

生きているのが嫌だから
何もかも終りにしたいから
そう思って命を絶つ

生きている間だけが華なんだからと
欲望のおもむくままに
エゴの命じるままに生き
ある日地上の命が尽きる

そして
何もかもなくなってしまうと思っていたのに
死んでもなお自分は残っていること

もはや肉体を捨てたのだから
それ以上何も捨てられないこと
逃げ場がないこと

積み上げられた請求書(カルマ)の
支払いにかからなければならないこと
その事実を眼の前に突きつけられたら……


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