□◆□…優嵐歳時記(2196)…□◆□

  真っ直ぐに伸び行く竹の皮を脱ぐ   優嵐

筍が生長し、もう見上げるような高さになっています。天辺はまだ筍の形をしていますが、根元からしだいに皮がとれて若竹の姿が見え始めています。いつもこの姿をみると中学生くらいの少年を連想します。背丈がぐんぐん伸び、青年の雰囲気が漂い始めているのですが、まだ幼さやその間にあるぎこちなさも多分に残している、そんな感じです。

「汝自身を知れ」についてもう少し考えてみました。作家・吉川英治の座右の銘は「我以外皆我師(われ以外みなわが師)」でした。『宮本武蔵』の中にもこの言葉が出てきます。以前から知っていて、「人のふりみてわがふりなおせ」といったことわざに近いものだろうと解釈していました。「汝自身を知れ」という言葉について考えているうちにこの言葉が浮かび、これはもう少しいろいろな意味を含んでいるのかもしれない、と思いました。

我以外皆と言っていますから、吉川英治は師を人とは限っていないわけです。「ありとあらゆるものが自分の師になりうる、師とするのはそれを見る人間のものの見方だ、そういう目を持ちたい」吉川英治はそういうことをこの言葉にこめているのではないか、という気がします。

なんでもないことが突然驚くような気づきをもたらしてくれることがあります。以前の職場へは毎日マウンテンバイクで通っていました。今頃になると毛虫がたくさん道路に這い出てくるようになります。車の通りが結構あるので、たいてい轢かれて死んでしまいます。それを見ながら、「なんでこんなところに出てくるんだろう、バカだなあ」と思っていたものでした。

ところがある日、ふと、「自分が毛虫を見ている立場は、神仏が人間を見ている立場に似ているかもしれない」と思いました。毛虫の行動が愚かであるように人間の行動も愚かなのです。自分がよかれと思って、日々を毛虫のようにあくせくと動き回っている。眼の前のことしか見えないからそっちへ行ったら車に轢かれることもわからない。

神仏は、「ああ、また愚かなことをしているな」と思いつつ、人間を見ています。神仏の視点からは丸見えで自明のことが人間にはさっぱりわからない---。これに似たような気づきは思い起こしてみるとそれなりにあるものです。世界は主観を通した私の心のあらわれですから、世界のすべては”汝自身を知るための鏡”になるのです。


<驚異と歓喜>
目があるから見えるわけでも
耳があるから聞こえるわけでもない

見る目があって初めて見え
聴く耳があって初めて聞こえるものがある

誰もが無垢な目を持って生まれ
世界を驚異と歓喜のまなざしで見つめる
それが成長とともに不透明なベールに覆われるようになる
先入観とも常識とも

世界から驚異も歓喜も消える
退屈という帳が下りる
見えないのではない
見ていないのだ

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