□◆□…優嵐歳時記(2257)…□◆□

  炎昼の真ん中にある静けさよ  優嵐

23日は二十四節気の大暑でした。夏の最後の二週間、酷暑、猛暑、炎暑という言葉がふさわしい時期です。「炎昼」は真夏の真昼間のめまいがしそうな暑さを表しています。昨年はこういう季語を使う機会がありませんでした。

昨日はアートセラピーで大阪に行っていました。四・五・六月は「コミュニケーション」がテーマでした。最初にこの三ヶ月間の振り返りを行いました。三回のうち二回は共同作業で大きな絵を描きました。それに関して、隣の人との境界部分や他の人がどのように描いているかということをとても気にされている方の振り返りが、私にとっては驚きでした。

境界部分は自分にとっては「ああ、そういうところもあったね」という付け足しのようなもので、重なったら重なったでいいし、それは適当で…、という感じでもっぱら自分が何を描くかしか関心がなかったといえます。ただ、どういう反応が「正しい」というのはありません。

私たちは子どもの頃から常にジャッジされること、評価されることに慣れてしまっていて、アートセラピーにおいてもそうした「判断」を求めがちです。しかし、描いた人の状況がすべて違うのですから、正邪や善悪を誰かがジャッジすることはつつしまなければいけません。描いた本人が気づく、そのよすがとしてアートがあるのです。

七・八・九月は「観る」というテーマで絵を描きます。昨日は最初にジャガイモとそれに似た小石を並べて色鉛筆で写生し、気づいたことをメモしました。次に南天の葉を写生して「自分が観察した事実」についてメモしていきました。このワークのあと、参加者の方の感想の多くが「何が事実かについて考えさせられた」というものでした。実際、普段の生活の中で観察した事実だけを述べているということはまずありません。

百人いれば百通りのものの見方があり百の主観が入っています。問題は「自分が主観を通してある一つのものの見方をしている」ということを忘れ、それが普遍的事実だと勘違いしてしまうことにあるのだろうと思います。

恐らく数量化できるようなことは、それに気づきやすいのでしょう。しかし、いつもそれが可能ではないし、特にそれが人間的な「感情」が絡むものになると難しくなります。世界で起こる対立も個人の悩みも、ものの見方を変えることができない、つまり「自分が正しいと思い込んでいるものの見方」にとらわれ、絶え間なくそれに基づく判断をおこなっていることから発生しています。

人間ができるのは世界を変えることではなく、自分のものの見方を変えることだけだ、とは昔からずっと言われてきたことです。しかし、それは容易なことではありません。正邪、善悪、優劣、そういジャッジから離れることができれば、苦悩からも離れることができます。そのために、何が事実で何が主観かということを理解しなければならないのです。そのための「観る」です。


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