□◆□…優嵐歳時記(2284)…□◆□
亀ゆらり残る暑さへ浮かび来る 優嵐
午後五時半になっても外気温が36度ありました。このところ夜になっても気温がなかなか下がらず真夏以上の酷暑ですね。
そういえば、ウグイスの囀りがいつの間にかやんでいます。蝉の鳴声にかき消されて気づくのが遅れましたが、最後に聞いたのはいつだったでしょうか。八月に入ってからも確かに鳴いていた記憶があります。立秋の前後には囀りをやめていたかもしれません。
「鶯音を入る」という季語があります。繁殖期を過ぎたウグイスが囀りをやめ、地鳴きだけになることを指しています。夏の季語ですから、やはり立秋の頃が囀りを聞いた最後だったのでしょう。
<注意深くあること>
無意識的でない生き方とは
常に注意深くあることだと気づいた
日常の多くのことを
私たちは自動操縦のロボットに任せて生きている
ついさっきの自分の行動を
もう思い出せないということはないか
多分初めてそれをおこなったときは
新鮮で集中していたはずだ
いつの間にかそれを無意識の
ベルトコンベアーの上に載せている
顔を洗うような行動だけではない
車の運転といった命にかかわるような行動すら
いつか無意識に任せてしまっている
そんなことにいちいち
かかずらわってはいられない
そう思うからいろいろなことを「ながら」でやる
ながらでやる限り注意力は殺がれる
いちいちかかずらわっていられないと
思いながらやる「別のこと」とは何だろう
そんなに急いでたくさんのことを同時に
せずにいられないというのはなぜだろう
なぜそれほど駆り立てられてしまうのか
そして
いつもいつも自動操縦のロボットに任せてしまい
結局生きていくことの果実を味わうことも
そのロボットに乗っ取られていないか
宝物は常に降り注いでいる
拒否しているのは自分の方なのだ
亀ゆらり残る暑さへ浮かび来る 優嵐
午後五時半になっても外気温が36度ありました。このところ夜になっても気温がなかなか下がらず真夏以上の酷暑ですね。
そういえば、ウグイスの囀りがいつの間にかやんでいます。蝉の鳴声にかき消されて気づくのが遅れましたが、最後に聞いたのはいつだったでしょうか。八月に入ってからも確かに鳴いていた記憶があります。立秋の前後には囀りをやめていたかもしれません。
「鶯音を入る」という季語があります。繁殖期を過ぎたウグイスが囀りをやめ、地鳴きだけになることを指しています。夏の季語ですから、やはり立秋の頃が囀りを聞いた最後だったのでしょう。
<注意深くあること>
無意識的でない生き方とは
常に注意深くあることだと気づいた
日常の多くのことを
私たちは自動操縦のロボットに任せて生きている
ついさっきの自分の行動を
もう思い出せないということはないか
多分初めてそれをおこなったときは
新鮮で集中していたはずだ
いつの間にかそれを無意識の
ベルトコンベアーの上に載せている
顔を洗うような行動だけではない
車の運転といった命にかかわるような行動すら
いつか無意識に任せてしまっている
そんなことにいちいち
かかずらわってはいられない
そう思うからいろいろなことを「ながら」でやる
ながらでやる限り注意力は殺がれる
いちいちかかずらわっていられないと
思いながらやる「別のこと」とは何だろう
そんなに急いでたくさんのことを同時に
せずにいられないというのはなぜだろう
なぜそれほど駆り立てられてしまうのか
そして
いつもいつも自動操縦のロボットに任せてしまい
結局生きていくことの果実を味わうことも
そのロボットに乗っ取られていないか
宝物は常に降り注いでいる
拒否しているのは自分の方なのだ
コメント
コメント一覧 (4)
>いつの間にかそれを無意識の
>ベルトコンベアーの上に載せている
そうですね〜。現代人は忙しすぎるのかも知れませんね。
無意識領域のお陰で仕事や日常生活がスムーズに行くというのも事実ではありますが、僕の見るところ「殆どの常識は非常識である」ことが常識がもてはやされる数年後に明らかになります。酷暑が続くと異常気象だとか言われますが、こんな暑さは通常の寒暖の範囲内で別に異常気象ではありませんし、地球温暖化なんて真っ赤な嘘の可能性が高いですし、国家予算がないなんて言っているけど叩けば幾らでも埃が出てくる公的組織の無駄遣いを無くせば本当に必要な公共の福祉のための予算なんか幾らでもあるものです。国債を自国民で持っていないギリシャと国債を自国民が持っている日本を高名な経済専門化が表面的に同一視しちゃうし。(日本経済沈没とか名の付く本を出版したのなら、その著者は円通貨なるものを持っていないことを公言してから書いて欲しいですね。)この世のことを全て意識領域で考えるととハンドルの遊びがなくなって神経がヘトヘトになりますが、遊びの部分と敢えて遊びにしない部分をメリハリつけて意識化、相対視することは大切ですね。
「自動操縦のロボット」という表現、なるほど!と思いました。
ほんとに、知らないうちに、自分の良くない行動パターンを繰り返してるときがありますものね。行為というか行動の積み重ねの結果が人生になるわけですが、自分で意識をチェンジしないと、同じ行動を繰り返してしまいます、ロボットのように。
>現代人は忙しすぎるのかも知れませんね。
生活が便利になり、情報処理が速くなる道具が二十世紀に入って大量に開発されました。主婦は日常の炊事洗濯をかつては全部手作業で行っていたわけですが、今やそれはボタンひとつでほとんどできるようになりました。
電話が生まれ、ケータイ、パソコン、メールと情報機器が発達してもっと余裕が生まれるかと思いきや、逆に忙しさが加速されるばかりというのは、根本的に何かが間違っているという気がします。「貪り」でしょうか、これも一種の。もっともっとと求めて結局、それに追いまくられている…。
人間の根本的な意識が変わらない限り、本当のゆとりは生まれ得ないと思います。しっかり「今に在る」という意識状態を作り出せない限り、いくら便利な機械に囲まれていてもそれは見果てぬ夢にしか過ぎないということを人間はそろそろ気づく時期にきているのでしょう。
マスメディアは、あれを買えば幸せになるという夢を煽るか、逆にこうしなければ不幸になるという恐怖を煽るか、しかし、結局それらはいずれも幻想に過ぎないんですよね。
自動操縦のロボットが真の私の代わりに私を乗っ取り、私の人生の大半の時間を生きている、という気がするんですね。実際、かなり複雑なことでもこのロボットはやすやすとやってくれて、助かる場合もあるのですが、それが実はヤバイ。自分の人生への気づきのアンテナが鈍ってしまうというか、ロボットの胎内で眠ってしまうといいますか。
もしかしたら、死んだ時、自分は本当はほとんど生きていなかったのだと初めて気づくのではなかろうか、と思いました。ゾンビ状態で生きてしまっている。「感動した!」と言っているものさえ、そのゾンビかもしれない。ホラーに見えないホラーですよね。