□◆□…優嵐歳時記(2292)…□◆□
かなかなの翅透きとおる声もまた 優嵐
里では蝉の声がかなり少なくなってきました。鳴いているのもホウシゼミがほとんどです。それでも、森へ行くとまだまだミンミンゼミもアブラゼミもにぎやかです。「かなかな」はヒグラシのことです。鳴声からこう呼ばれているのは、「つくつくぼうし」と言われるホウシゼミと同じです。
アブラゼミやミンミンゼミに比べると随分小形で繊細な印象を受けます。ミンミンゼミのあの浪曲師のような声は、そばで聞いていると驚くほどですが、ヒグラシの声は蝉というよりも秋の虫に近い音色です。だから涼しげなんですね。
<午後の頂にて>
少し遅めに山へ出かけた
初秋の陽はすでに西へ傾き始めている
頂の空間に小楢が落とす影が長く伸びていた
海は青く
水平線に横たわる淡路島が今日はよく見える
毎日ここに来ているのだけれど
一日も同じ日は無かった
その日のその瞬間はそのときにしかなく
私という人間も常に変わってゆく
かけがえのないことは
特別な瞬間にあるのではなく
日常すべてを貫いて流れている
かなかなの翅透きとおる声もまた 優嵐
里では蝉の声がかなり少なくなってきました。鳴いているのもホウシゼミがほとんどです。それでも、森へ行くとまだまだミンミンゼミもアブラゼミもにぎやかです。「かなかな」はヒグラシのことです。鳴声からこう呼ばれているのは、「つくつくぼうし」と言われるホウシゼミと同じです。
アブラゼミやミンミンゼミに比べると随分小形で繊細な印象を受けます。ミンミンゼミのあの浪曲師のような声は、そばで聞いていると驚くほどですが、ヒグラシの声は蝉というよりも秋の虫に近い音色です。だから涼しげなんですね。
<午後の頂にて>
少し遅めに山へ出かけた
初秋の陽はすでに西へ傾き始めている
頂の空間に小楢が落とす影が長く伸びていた
海は青く
水平線に横たわる淡路島が今日はよく見える
毎日ここに来ているのだけれど
一日も同じ日は無かった
その日のその瞬間はそのときにしかなく
私という人間も常に変わってゆく
かけがえのないことは
特別な瞬間にあるのではなく
日常すべてを貫いて流れている
コメント
コメント一覧 (4)
ここ埼玉でもツクツクボウシの鳴き声が多くなり、まだ暑いけれど、夏の終わりを感じています。
ヒグラシの高く美しい「かなかな」という鳴き声もいいですね。
夕方に聞くと、涼しさを実感します。
ツクツクボウシもヒグラシも秋の季語、明日で八月も終わりです。
いい俳句をありがとう。
<午後の頂にて>もいい詩ですね。
最後の節、「かけがえのないことは/特別な瞬間にあるのではなく/日常すべてを貫いて流れている」は、、まったくそのとおりだと思います。
私も一日一日瞬間瞬間を大切に丁寧に生きていきたいです。
印象派の画家モネの「すべては変わる、石さえも」という言葉も思い出しました。
いつも真摯なコメントを書いてくれて、ありがとう。
ホウシゼミが主役になると、夏休みが終りというイメージ残っています。明後日から小中学校は新学期ですね。子どものころのことを思い出したりすると、あのころはそれがずっと続くように感じていたということに、ある種の感慨を覚えます。
人生はどんどん流れていく川のようなもので、それも自然の川と異なり、下流にいくほど流れが速くなるという恐ろしい川です(笑)。いつでもそこへ戻れると思っていたけれど、一度通り過ぎると、もうそこには二度と戻ることができないのですね。
時間そのものは人間の錯覚だという見方もできます。今ここしかなく、それ以外は無いのだ、と。
私も子供のころは、「夏になったら夏休み」というパターンがずっと続くように思っていました。
人生は本当に川のようなものですね。
下流に行くほど(年齢を重ねるほど)速くなり、二度とそこには戻れません。
大切な「今」を犠牲にしないようにしたいものです。
時間というもの、さらに年齢が高くなるほど時間の流れを速く感じるという現象、考えてみると不思議ですね。これは誰もがそのようで、別に忙しいからとか、ではないようです。なぜなのか、と考えてみたら、昔、時間の感覚は人生の過ごしてきた長さの相対で感じるものだからだ、ときいて、なるほど、と納得しました。
つまり、6歳の子の一年は60歳の人の一年の十倍の長さとして感じられるということです。これが事実かどうかは知りませんが、まあ、確認のしようもありませんね。ですから、子ども時代というのは物理的な時間よりずーーーっと長いものだと言えますね。その後何度も思い出したりもしますから、さらに長いものかもしれません。