□◆□…優嵐歳時記(2341)…□◆□
中世の宝篋印塔秋の声 優嵐
「秋の声」とは、秋のもの寂しさを感じさせるさまざまな物音をさします。春の声、夏の声、冬の声という季語はなく、「秋の声」だけが季語として存在するというところに、季節に寄せる日本人の微妙な感覚を思います。
祖母と父の法要で檀家のお寺に行きました。境内の一画に南北朝時代の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が安置してあります。ここはかつて土地を治めていた武士の住居だった場所であり、発掘作業で出土したものだということです。
今回、法要時に曹洞宗でよまれるお経が書いてある聖典を見せていただきました。その中に「修証義」というお経があります。これまでは住職がよまれるのを聞いていただけだったのですが、こうして文として読むと、何が書いてあるのかがおおまかながら理解できます。「お経は死者のものではなく、生きている人間のためのものだ」との思いを新たにしました。
<心しておく>
道元はいう
光陰は矢よりも迅(すみや)かなり、
身命は露よりも脆(もろ)し
何れの善巧(ぜんぎょう)方便ありてか
過ぎにし一日を復び環(かえ)し得たる
無常迅速
それと同時に
徒(いたず)らに百歳生けらんは
恨むべき日月(じつげつ)なり
とも説いている
得がたき人身を得たのであるから
精進しなさい
たとえ人生最後のわずか一日であろうとも
真実に沿った生き方ができれば
それは素晴らしいことなのだと
中世の宝篋印塔秋の声 優嵐
「秋の声」とは、秋のもの寂しさを感じさせるさまざまな物音をさします。春の声、夏の声、冬の声という季語はなく、「秋の声」だけが季語として存在するというところに、季節に寄せる日本人の微妙な感覚を思います。
祖母と父の法要で檀家のお寺に行きました。境内の一画に南北朝時代の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が安置してあります。ここはかつて土地を治めていた武士の住居だった場所であり、発掘作業で出土したものだということです。
今回、法要時に曹洞宗でよまれるお経が書いてある聖典を見せていただきました。その中に「修証義」というお経があります。これまでは住職がよまれるのを聞いていただけだったのですが、こうして文として読むと、何が書いてあるのかがおおまかながら理解できます。「お経は死者のものではなく、生きている人間のためのものだ」との思いを新たにしました。
<心しておく>
道元はいう
光陰は矢よりも迅(すみや)かなり、
身命は露よりも脆(もろ)し
何れの善巧(ぜんぎょう)方便ありてか
過ぎにし一日を復び環(かえ)し得たる
無常迅速
それと同時に
徒(いたず)らに百歳生けらんは
恨むべき日月(じつげつ)なり
とも説いている
得がたき人身を得たのであるから
精進しなさい
たとえ人生最後のわずか一日であろうとも
真実に沿った生き方ができれば
それは素晴らしいことなのだと
コメント
コメント一覧 (4)
今朝の川越は晴。少し寒いです。
今日の俳句は変わっていますね。
「秋の声」が季語であることを初めて知りました。
「お経は死者のものではなく、生きている人間のためのものだ」という思いには全面的に賛成です。
キリスト教の聖書もそうですが、偉大な宗教の聖典は、すべからく生きている人間のためのものだと思います。
<心しておく>は、素晴らしい詩ですね。
まさに、私たちは「得がたき人身を得たのであるから」、「真実に沿った生き方」をしたいものです。
ちなみに優嵐さんは、曹洞宗の信者ですか?
よければ教えてください。
今日が優嵐さんにとってよき日でありますように。
この句は私なりの「無常」というものへの思いを詠んだつもりです。当時の権力者の住居跡に建っているお寺、人々はそれなりの権力意識、宗教観、倫理観に従って、戦い、生きた、勝者と敗者、善悪、すべては風の前の塵になり、今こうして宝篋印塔だけが残り、秋の風にさらされている…。
曹洞宗の信者かと問われれば、さあどうでしょう、と答えるしかありません。こういうのをユダヤ、キリスト、イスラムといった唯一神を信じる宗教の信者の方からすると、「宗教観がない」といわれるのかもしれません。
唯物論者でないことは確かです。かといって、強く何かを信仰しているというのでもありません。何か「大いなるもの」「人間を超えたもの」があり、その存在に、あるいはヤハウェ、あるいはアッラーとの名をそれぞれの民族が便宜上つけているのだと思っています。「その存在」をどのような名で呼んでもそれは同じものです。
フクヤンさんにとって、今日がよき日でありますように。
「大いなるもの」につながっておられたのでしょうね♪
坂井泉水さんの活動の方法は今考えても不思議ですね。そして、ああいう方法が許されたということも。彼女だけの意志でそれが可能だったとは思えず、それを支えたバックのスタッフに恵まれたというのが何よりだと思います。もし全く違う活動の仕方を強いられていたら、と想定すると、人間、出会うべき時には出会うべきものに出会い、助けられ力を発揮できるものなのだ、と思います。彼女の才能があの時代に必要だったし、ああいう形で発揮されることも必要だった、そう思えてなりません。