□◆□…優嵐歳時記(2344)…□◆□
うす雲に影にじませて後の月 優嵐
昨夜は十三夜、陰暦九月十三夜の月でした。これを季語で「後の月」といいます。昨日は昼間からうすぼんやりとした曇り空で、月が見えるだろうかと案じていました。それでも雲は薄く、月の光が雲を透かして見えました。
八月十五夜の名月の一ヶ月後なので、「後の月」、枝豆や栗を供えるところから「豆名月」「栗名月」とも呼ばれます。八月十五夜と九月十三夜をあわせて「二夜(ふたよ)の月」といい、名月だけを見て、後の月を見ないのは「片見月」としてよくないこととされました。
昔のお月見は一大イベントでした。十五夜にもてなされた家には十三夜にも訪れて、馳走になったり泊まったりする習慣があったといいます。今では電灯にかき消されてお月見の習慣は、すっかり影が薄くなってしまいました。
十五夜と十三夜に、電灯を消して月に親しむというのは、風流な習慣ではないでしょうか。月の明りで静かに一献傾ける。大人にはハロウィンよりもこちらの方がいいように思います。
<人間の能力>
モーツァルトは
作る曲を一瞬にして聴くことができた
まるで絵画か彫刻を見るように
演奏すれば何十分もかかる交響曲さえ
瞬時につかむことができた
こうした「超聴力」で聴けたとき
それこそが最高の瞬間だと語っている
人間には途轍もない可能性がある
計算して分析して計画して…
そういうものを瞬時に飛び越えてしまう何か
小さく折り畳まれたパラシュート
それがこの世を生きている人間の姿
誰かが紐をひいたなら大空に向かって開く
うす雲に影にじませて後の月 優嵐
昨夜は十三夜、陰暦九月十三夜の月でした。これを季語で「後の月」といいます。昨日は昼間からうすぼんやりとした曇り空で、月が見えるだろうかと案じていました。それでも雲は薄く、月の光が雲を透かして見えました。
八月十五夜の名月の一ヶ月後なので、「後の月」、枝豆や栗を供えるところから「豆名月」「栗名月」とも呼ばれます。八月十五夜と九月十三夜をあわせて「二夜(ふたよ)の月」といい、名月だけを見て、後の月を見ないのは「片見月」としてよくないこととされました。
昔のお月見は一大イベントでした。十五夜にもてなされた家には十三夜にも訪れて、馳走になったり泊まったりする習慣があったといいます。今では電灯にかき消されてお月見の習慣は、すっかり影が薄くなってしまいました。
十五夜と十三夜に、電灯を消して月に親しむというのは、風流な習慣ではないでしょうか。月の明りで静かに一献傾ける。大人にはハロウィンよりもこちらの方がいいように思います。
<人間の能力>
モーツァルトは
作る曲を一瞬にして聴くことができた
まるで絵画か彫刻を見るように
演奏すれば何十分もかかる交響曲さえ
瞬時につかむことができた
こうした「超聴力」で聴けたとき
それこそが最高の瞬間だと語っている
人間には途轍もない可能性がある
計算して分析して計画して…
そういうものを瞬時に飛び越えてしまう何か
小さく折り畳まれたパラシュート
それがこの世を生きている人間の姿
誰かが紐をひいたなら大空に向かって開く
コメント
コメント一覧 (10)
今朝の川越は小雨が降って少し寒いです。
俳句がいいですね。
薄雲を通して見える月の光をよく表しています。
月に関する季語がたくさんあることを知って、勉強になりました。
<人間の能力>もいい詩ですね。
最後の節は、人間の能力を「小さく折り畳まれたパラシュート」に例えて、実に上手いと思います。
今日が優嵐さんにとってよき一日となりますように。
姫路もどんよりとした曇り空です。雨になるかもしれません。月は電灯が出現するまでは夜を照らす唯一の大きな存在でした。現代人からはとても想像できないような思いを昔の人は月に寄せていたのだろう、と思います。
モーツァルトの神童ぶりにはいろいろなエピソードがありますね。こういう人がいたというだけで、人間の能力の可能性はもっともっと大きいと感じます。
しなくなったねー。
人が月を踏んでからかなー。
冷房で涼みに出かけなくなったしなー。
後の月、でしたか、前も見た記憶が無いからイイか。
モーツァルトの超能力すごいね。
最近はスケボー、自転車のエキストリーム、すごいなーと見ております。 スキーのモーグルも私から見ると超能力だねー。
お月見をもっとマーケティングに利用すればいいのになと思いますね。結構やれると思うのですが。観月ツアーとか観月のディナーとか。夏至にエコで電気を消すイベントがありましたが、名月にそれをやるなどというのでも。
こういう天才には逸話が必ずあり、ミケランジェロにも「大理石を彫るのではなく、中にいるダビデを取り出すのだ」と言ったという話があります。ベーブ・ルースの予告ホームランとか。こういう瞬間にはあっちとつながってしまうのではないか、と解釈しています。
子供の頃、サザエさんで、お月見のシーンがよく出てきて、その時にでてくる積み重なった団子が美味しそうで、食べたくて仕方ありませんでした。
夜の静寂のなかで、美しい月をみる…素敵な行事ですね。
失われつつあるのが残念です。
モーツァルト、すごいですね。
一生に一度でもそのような瞬間を味わってみたいものです。
お月見はイラストやマンガにはけっこう使われていますが、実際にする人というのは少ないような気がしますね。和菓子の老舗が月見団子の新作を出してくれるとか、ネットで月見のスイーツを販売するとか、そういうのどうかな、と思うんですけどねえ。
モーツァルトは、神童ですねやはり。こんな瞬間が味わえたら、もう死んでもいいですよ。彼はどこかで回路が開いたままだった…、だから夭折だったのかなと思います。
月の光は 寄り道をしながらおろおろ歩くための光
お月見をしなくなったのは、標準的な夕食の時間に帰宅できない人が増えすぎたせいでは・・・。
休みの日、自体は昔から比べれば増えているでしょうが、その分平日の労働時間がシビアです。毎日毎日深夜の帰宅というのは経験ありますが、ずっと職場のデスクに座っているような錯覚を覚えます。長く続きすぎると最終的には職場のデスクに居ないと何も出来ない男になっていきます・・。
<人間の能力> ひらめきや爆発力。なかなか、後付の訓練ではできません。その人が持っている天賦の才能とか、あるいは責任のない(子供の)頃の豊富な経験でしょうか。
「小さく折りたたまれたパラシュート」というのが特に印象的です。紐を引かれる瞬間を待っている姿はつぼみの脹らむような期待感もあり、また、小さくうずくまっている現代の若者のようにも見えます。若い子(20代?)の紐を引いてあげるのはそれよりも年長の人間の責任だと感じています。
モーツァルトの卓越した能力は、どこかで読んだ記憶があります。かなり昔にテレビで中国の子どもの潜在能力開発の様子が放映されていて、気功のトレーニングで眉間あたりの天目を開く
と、透視能力が発現するようです。人間に潜在してる能力は大きな可能性を秘めてますよね!
日本人の労働観について、「働き蜂」と誰もが思っているのですが、最近は「家族を養うためだけに最低限の仕事ができたらいい」「勤務時間も最小で、休日出勤はしたくない」ととにかくかつてのパートの主婦のようなことを言う若い男性が目だつようになってきているそうです。人生の目標は結婚することと言う人もいるとか(笑)
仕事の種類によっていろいろなんでしょうけれど、最近はメディアでも「家族を大事に」「子育てを」みたいなことを大々的にキャンペーンするので、それに靡く男性層が増えたということなのでしょうか。モーレツ社員がいいとは思いませんが、なんだかなあ、という覇気の無さですね。
人間の才能は大半が持って生れたもので、歴史に名を残すほどの天才は、一方で多くの場合、一般人から見れば悲劇的な生涯を送っています。夭折が多いし、自殺率も極めて高い。ただ、一般人では想像もつかないような経験が(お金とかそういうことではなく、創造の喜びなど)できたと思います。何が幸せかというのはわかりません。すべてを手にできるということはありえないと思いますね。
ハロウィンが注目されるようになったのは、この時期に目立ったイベントがないからだとか。それならお月見があるじゃないか、と思うのですが、なぜか洋風の名前がついていないとファッショナブルじゃないんでしょうね。「西洋のどこかでの習慣」というのに日本人は弱いから…。
モーツァルトほどの能力はなかなか人間の手でなんとかできるものではないでしょうねえ。彼自身が人類への神からの贈りものという気がします。