□◆□…優嵐歳時記(2348)…□◆□
万年筆インク入れ替え秋の雨 優嵐
夕暮れになる前に雨が降り始めました。絵を描くのに使っているプラチナカーボンブラックは耐水性顔料インクのため、万年筆のメンテナンスが必要です。一ヶ月に一度くらいはペン先をぬるま湯に一日から二日浸してください、とあります。
このインクを使って絵を描き始めてほぼ一ヶ月たったのと、ちょうどインクがなくなったので、昨晩からペリカーノのペン先を水に浸し、その後インクを入れました。インクの入れ替えのときは周りを汚さないよう気を使います。絵を描くと字を書いているよりは、インクの減り具合が早いように思います。
子ども(幼児)の絵を見て、自由奔放に描いているという人があります。一見そのように見えても実は少し違います。子どもの絵は年齢によってだいたいどういう感じかが決まっています。
これはお母さん、お日さま、お花、お家、お友だち…、外の世界にあるものをシンボル化し、言葉とともにそれらを自分の中へ取り込んで定着させるために子どもは描きます。子どもがみんな絵を描くのが好きであり、描かずにはいられないというのはそれゆえでしょう。
外の世界をシンボル化して取り込む間は写実は必要ありません。概念でつかむことが大事なのです。目はこういうもの、椅子はこういうもの、手はこういうもの…、そうしてどんどん吸収していきます。こうした貪欲な概念吸収の時代が終わる時、絵を描くことは第一段階の役割を終えるのだと思います。
現代絵画ではすでに写実的なリアリズムは意味が無いとされています。確かにプロの芸術家としての絵は、単に見たとおりに描けるというだけでは意味がないでしょう。しかし、一般人が写実的に描く訓練をすることは非常に意味があるのではないか、と最近思うようになっています。
なぜなら、写実的に描けないということは、ちゃんと物が見えていないということだからです。自分の中の概念にとらわれ、ものをそのままの形で見ることがどこかで妨げられています。子どものとき概念として固定したものから自由になるために、写実的に絵を描くのです。
三次元の物体を二次元の絵に移し変えるとき、自分の視点の取り方でモノは全く違う形で見えます。「こう見えるはずだ」というのは通用しません。写生はそのことを教えてくれます。
<少年よ>
裸足の少年が自転車に乗って駆けてきた
サドルに座ったらペダルに足がとどかない
大人の自転車が彼のものになったのは
つい最近のことだ
ぼく乗れるんや
ほら見て
ちゃんと乗れるやろ
少年の顔は誇りに輝いている
思い出すあの感触
何かが初めてできた日の
例えようもない喜び
自分の中からこみあげてくる
嬉しさをどうしようもない
できた
できた
私にもできた
そうだそれを忘れないで
少年よ
その思いを抱いて
ずっと歩いていって
万年筆インク入れ替え秋の雨 優嵐
夕暮れになる前に雨が降り始めました。絵を描くのに使っているプラチナカーボンブラックは耐水性顔料インクのため、万年筆のメンテナンスが必要です。一ヶ月に一度くらいはペン先をぬるま湯に一日から二日浸してください、とあります。
このインクを使って絵を描き始めてほぼ一ヶ月たったのと、ちょうどインクがなくなったので、昨晩からペリカーノのペン先を水に浸し、その後インクを入れました。インクの入れ替えのときは周りを汚さないよう気を使います。絵を描くと字を書いているよりは、インクの減り具合が早いように思います。
子ども(幼児)の絵を見て、自由奔放に描いているという人があります。一見そのように見えても実は少し違います。子どもの絵は年齢によってだいたいどういう感じかが決まっています。
これはお母さん、お日さま、お花、お家、お友だち…、外の世界にあるものをシンボル化し、言葉とともにそれらを自分の中へ取り込んで定着させるために子どもは描きます。子どもがみんな絵を描くのが好きであり、描かずにはいられないというのはそれゆえでしょう。
外の世界をシンボル化して取り込む間は写実は必要ありません。概念でつかむことが大事なのです。目はこういうもの、椅子はこういうもの、手はこういうもの…、そうしてどんどん吸収していきます。こうした貪欲な概念吸収の時代が終わる時、絵を描くことは第一段階の役割を終えるのだと思います。
現代絵画ではすでに写実的なリアリズムは意味が無いとされています。確かにプロの芸術家としての絵は、単に見たとおりに描けるというだけでは意味がないでしょう。しかし、一般人が写実的に描く訓練をすることは非常に意味があるのではないか、と最近思うようになっています。
なぜなら、写実的に描けないということは、ちゃんと物が見えていないということだからです。自分の中の概念にとらわれ、ものをそのままの形で見ることがどこかで妨げられています。子どものとき概念として固定したものから自由になるために、写実的に絵を描くのです。
三次元の物体を二次元の絵に移し変えるとき、自分の視点の取り方でモノは全く違う形で見えます。「こう見えるはずだ」というのは通用しません。写生はそのことを教えてくれます。
<少年よ>
裸足の少年が自転車に乗って駆けてきた
サドルに座ったらペダルに足がとどかない
大人の自転車が彼のものになったのは
つい最近のことだ
ぼく乗れるんや
ほら見て
ちゃんと乗れるやろ
少年の顔は誇りに輝いている
思い出すあの感触
何かが初めてできた日の
例えようもない喜び
自分の中からこみあげてくる
嬉しさをどうしようもない
できた
できた
私にもできた
そうだそれを忘れないで
少年よ
その思いを抱いて
ずっと歩いていって
コメント
コメント一覧 (4)
今朝の川越は先ほどまで雨が降っていましたが、今は止んでいます。
万年筆ですか。手入れが大変なのですね。
中学生になったとき、初めて買ってもらった感動を思い出しました。
優嵐さんは、子供が絵を描くことをよく見ていますね。
まさに、その通りだと思います。
ただ、私の場合は少し違っていて、なぜか小さい子供のころから画集で見たピカソのキュビスムの絵(直線や曲線、円を多用している)が大好きでした。
小学校でそういう絵を描いたら、先生から「子供の描く絵じゃない」と怒られました。
が、中学校で美術部に入り、キュビスムの絵を描いたら逆に褒められました。
高校の美術部では、写実一本やりでした。
海の絵の話でもいいましたが、自分の固定された概念から抜け出るには非常にいい訓練になったと思います。
<少年よ>は、実に素晴らしい詩ですね。
あの日の思い出、あの日の感動、たえて忘れてしまっていた喜びを思い出しました。
優嵐さんに心から「ありがとう」と言いたいです。
今日が優嵐さんにとってよき日でありますように。
姫路はとりあえず雨はやんでいるが、まだ降りそう、という空模様です。
子どものときからピカソがお好きだったとは!純粋に色彩や形にひかれるというのは確かにあると思います。色や形に対する感受性がフクヤンさんの場合強かったのではないでしょうか。
詩をほめていただきありがとうございます。人間の喜びの二つの根源は「達成」と「発見」じゃないか、と思っています。「できた!」というのと「そうか、わかった!」というのと。子どもの時はそういうことが誰でも身近にあった。でも、いくつになっても、たとえ老人になってもこの喜びは身近にい続けてくれるのだと思います。それに気づけるかどうか、かな。
水彩に移る前に、静物画を描く練習をよくやったと記憶していますが、ピアノでメロディーラインのハッキリした曲を繰り返し弾くのと一緒でまずはハッキリしたものを正確に描くことが必要なのでしょうね。
絵の表彰状が何枚か家にあったように記憶しています。当時は絵がうまかったのだろうか・・・(笑)
詩の話。生きるということは「できない」⇒「悔しい」⇒「できた」⇒「やった」のサイクルだと思います。繰り返していくとちょうど姫路城の水濠の形で世界がどんどん大きくなりますよね。
サイクルがどこかでちょん切れて仕舞って、悔しいと思うこともなくなって閉じこもった子をもう一度引き戻せるだろうか。
絵を習っておられたのですね。今はもう描かれないのでしょうか。自分にあう画材にめぐり合うと、がぜんやる気になってしまいます(笑)。静物画は、子どものころは何が面白いのかよくわかりませんでしたが、今は凄く面白く、これはいったい何?という感じです。
>「できない」⇒「悔しい」⇒「できた」⇒「やった」のサイクルだと思います。
確かに。人間はあまりに簡単にできてしまうと飽きるし、難しすぎるとあきらめてしまう。その丁度中間地点に目標を定めると、モチベーションが続くのでしょう。誰でもその中間地点があるはずで、閉じこもってしまった子にもきっと何かあるはずなんですよね。どんなに他人からはつまらなく見えることでも本人が「やった!」と思えばそれは立派な達成なんですから。