□◆□…優嵐歳時記(2355)…□◆□
指先をインクに汚す秋の暮 優嵐
「秋の暮」は秋の夕暮れどきを意味します。日本人の美意識に深く根ざした季語であり、寂しさ、あわれさを本意にします。清少納言は『枕草子』で、「秋は夕ぐれ」といいました。秋のしみじみとした情緒は夕暮れにこそあるということです。
先日から万年筆とクーピーペンシルで絵を描くことに熱中しています。使っている万年筆は二本とも中字(M)のものです。デジカメで写真を撮って、ブログにアップしていますが、元の絵の大きさによって縮小率が変わるため、印象が変わります。いろいろな太さのペン先を揃えたいと思うようになりました。
その前に、ふでDEまんねん(セーラー)を試してみようと考えました。ペン先の形が特殊で、筆記の角度を変えることによって線の太さが変えられるという触れ込みの万年筆です。『楽しい万年筆画入門』で推奨されています。これを土曜日に手に入れました。
さっそくコンバーターでプラチナカーボンブラックを入れて描いてみましたが、感想は「うーん」。値段が千円ほどの万年筆なので、ペン先の滑りがいまひとつ。カーボンブラックは滑らかさを一段アップさせてくれるインクですから、これでこういう書き味ということは…。
また、線の太さを変えるために持つ角度を変えるにはそれなりのコツがいります。やはり万年筆自体を変えて描く方がいいと思いました。これはこれで面白い書き味があることは確かですが。まあ、なんでも試してみないと実際にどうかというのはわかりませんから、次へ進むステップとして良かったと思います。
<何処より>
自分が何かをしたい、とか
何かをしたくない、とか思うのは
自分の意志だろうか
自分の気持ちというものを
人は自分で操っていると思っているけれど
実はそうではないような気がする
アモールの矢に射られて
恋に落ちるといわれるように
人は自分の心を自分で操ることはできない
心の中に生れる望みや願いや決意
これほど不思議なものがあるだろうか
指先をインクに汚す秋の暮 優嵐
「秋の暮」は秋の夕暮れどきを意味します。日本人の美意識に深く根ざした季語であり、寂しさ、あわれさを本意にします。清少納言は『枕草子』で、「秋は夕ぐれ」といいました。秋のしみじみとした情緒は夕暮れにこそあるということです。
先日から万年筆とクーピーペンシルで絵を描くことに熱中しています。使っている万年筆は二本とも中字(M)のものです。デジカメで写真を撮って、ブログにアップしていますが、元の絵の大きさによって縮小率が変わるため、印象が変わります。いろいろな太さのペン先を揃えたいと思うようになりました。
その前に、ふでDEまんねん(セーラー)を試してみようと考えました。ペン先の形が特殊で、筆記の角度を変えることによって線の太さが変えられるという触れ込みの万年筆です。『楽しい万年筆画入門』で推奨されています。これを土曜日に手に入れました。
さっそくコンバーターでプラチナカーボンブラックを入れて描いてみましたが、感想は「うーん」。値段が千円ほどの万年筆なので、ペン先の滑りがいまひとつ。カーボンブラックは滑らかさを一段アップさせてくれるインクですから、これでこういう書き味ということは…。
また、線の太さを変えるために持つ角度を変えるにはそれなりのコツがいります。やはり万年筆自体を変えて描く方がいいと思いました。これはこれで面白い書き味があることは確かですが。まあ、なんでも試してみないと実際にどうかというのはわかりませんから、次へ進むステップとして良かったと思います。
<何処より>
自分が何かをしたい、とか
何かをしたくない、とか思うのは
自分の意志だろうか
自分の気持ちというものを
人は自分で操っていると思っているけれど
実はそうではないような気がする
アモールの矢に射られて
恋に落ちるといわれるように
人は自分の心を自分で操ることはできない
心の中に生れる望みや願いや決意
これほど不思議なものがあるだろうか
コメント
コメント一覧 (2)
昨日はうれしいコメントをありがとうございました。
俳句は、秋の夕暮れ時に絵を描くことに熱中している優嵐さんを上手く表していますね。
熱中できるものがあるということは素晴らしいことです。
ピカソの「人々が精気を失いつつあるこの時代に特に重要なのは、熱中することだ。熱中こそ、われわれや若い世代の人々が何よりも必要としているものである」という言葉を思い出しました。
いろいろチャレンジしている優嵐さんは素敵です。
<何処より>は、哲学的な詩ですね。
自分の心こそ、自分の思い通りにはならないものです。
優嵐さんの詩はそれを的確に表しています。
今日の写真は、ひときわ美しいですね。
優嵐さんの一日がよきものになりますように。
いつも俳句と詩の感想をいただき感謝しています。ピカソの言葉、同様のことを『今日の芸術』(光文社)の中で岡本太郎もいっていますね。幸福というのは、多分、その中にある、と私は思っています。われを忘れる、時間の流れから一瞬、自分の意識が外に出ている、そういう感覚を味わう時、人間は幸せになれるのです。
今日の詩はそういう感覚を呼び覚ますものがどこからやってくるのか、という不思議さについて考えて浮かびました。人間は「何かをさせられる」ということが嫌いですよね。同じことをやっても自分からしたいと思うと全く違う。その「したい」という感覚は、ではどこからくるのか。
教育にしてもマーケティングにしても、その感覚をなんとか起こさせようとするのですが、外からの働きかけには限界があります。内に生れるもの、内側から湧き出るもの。では、その内側はどこにつながっているのか…、とても不思議です。