□◆□…優嵐歳時記(2356)…□◆□
晩秋の小島へ光降り注ぐ 優嵐
十一月になり、秋の末が近づいてきました。今年ももうあと二ヶ月、なんとこの歳月の流れの速さでしょう。このところ、ぐずついたお天気でしたが、午後から晴れてきました。
断捨離(だんしゃり)という言葉を耳にされたことがあるでしょうか? 断捨離とはモノを捨てることです。そして、それによって執着を捨てることを可能にします。この言葉を友人から教えてもらったのですが、今、注目されているのだそうです。
へー、私はもうやったよ、と思いました。断捨離という言葉は初めてききましたが、実践はしていたのです。去年の秋冬にヤフーオークションで持ち物大量処分をやりました。これが第一次断捨離。先日、掃除に目覚め、さらに物品を処分して第二次断捨離。モノを捨てると意識変容が起こる、と断捨離を勧める心理療法家の方は話されています。これは確かです。
モノがなくなると部屋がすっきりします。せいせいします。部屋が広々としただけでなく、それ以上に自分の気持ちが広々とします。今の時代、モノを持つことが贅沢ではなく、広々とした空間を持つことが一番の贅沢ではないか、と思います。
<所有>
何かを持つと
自分がそれを所有すると同時に
自分の一部が所有されることになる
そのことに気づいているだろうか
家、車、貴金属、こだわりの品々
名声、地位、賞賛の数々
何らかの関係
所有されずに所有することはできない
それはコインの裏表

晩秋の小島へ光降り注ぐ 優嵐
十一月になり、秋の末が近づいてきました。今年ももうあと二ヶ月、なんとこの歳月の流れの速さでしょう。このところ、ぐずついたお天気でしたが、午後から晴れてきました。
断捨離(だんしゃり)という言葉を耳にされたことがあるでしょうか? 断捨離とはモノを捨てることです。そして、それによって執着を捨てることを可能にします。この言葉を友人から教えてもらったのですが、今、注目されているのだそうです。
へー、私はもうやったよ、と思いました。断捨離という言葉は初めてききましたが、実践はしていたのです。去年の秋冬にヤフーオークションで持ち物大量処分をやりました。これが第一次断捨離。先日、掃除に目覚め、さらに物品を処分して第二次断捨離。モノを捨てると意識変容が起こる、と断捨離を勧める心理療法家の方は話されています。これは確かです。
モノがなくなると部屋がすっきりします。せいせいします。部屋が広々としただけでなく、それ以上に自分の気持ちが広々とします。今の時代、モノを持つことが贅沢ではなく、広々とした空間を持つことが一番の贅沢ではないか、と思います。
<所有>
何かを持つと
自分がそれを所有すると同時に
自分の一部が所有されることになる
そのことに気づいているだろうか
家、車、貴金属、こだわりの品々
名声、地位、賞賛の数々
何らかの関係
所有されずに所有することはできない
それはコインの裏表

コメント
コメント一覧 (6)
「断捨離」の言葉は私も昨年知りました。その前には『捨てる技術』が流行りましたね。日本という国はいま、本当に豊かで恵まれているのでしょうね。「モノを大切にしなさい」「もったいない」と言われた時代も確かにあったのですから。
もっとも、両者は同じことを言っていると、ワタシは思っています(^^)
さて「断捨離」ですが、ワタシの場合はキモチの「断捨離」と読みかえました。モノを捨てても残る思い(よい思い苦い思いさまざま)はあると思います。キモチの「断捨離」ができれば、モノを捨てる捨てないはあまり関係ないかもしれません。その意味では、「断捨離」も「捨てる技術」も、最終目的のひとつはキモチの「断捨離」かなと思います。
今日の東京は、すばらしい秋晴れです。
>両者は同じことを言っていると、ワタシは思っています(^^)
はい。私もそう思います。また、モッタイナイということとも通じていると思います。捨てるということに関しての共通意識が現代人にはまだできていないのかもしれないと感じます。モノとの関係をどう築くかがはっきりわかっていない。モッタイナイというのはものを大事にいつくしんで使うことであって、モノを大量に溜め込み、部屋を物置にすることではないですね。
食べものとの関係と似ているかもしれないとも思います。ついこのあいだまで飢餓・欠乏状態で何万年も暮らしたため、栄養補給に関して身体は飢餓に備える仕組みを発達させてきました。それがここ数十年で、先進国は突然の過剰栄養。仕組みが変えられず「食べること」に問題続発です。
モノにも同じことがいえますね。モノがいつなくなるか不安だから、溜め込む、捨てられない、モノを持つ人が豊かだったから、モノをどんどん買う…。カレン・キングストン(アメリカの捨てる本の著者)が「モノを捨てられない人は肥満だ」と書いていたのを思い出しました。
気持ちとモノはリンクしているんですね、まさに。これは深いなあとあらためて思っています。凄く単純だからよけいに深い。
姫路も秋晴れですよ〜(^0^)/~~~
今日の川越も昨日までとは打って変わって素晴らしい秋晴れです。
「断捨離」という言葉は、私は初めて知りました。
サティシュ・クマールさんの『君あり、故に我あり』にも、モノへの執着を捨てることの大切さが書いてありますが、私もそう思います。
が、モノへの執着は深く、なかなか実行できません。
少しずつ捨ててはいるのですが・・・。
判断するのは簡単で、難しいのは実行することだとつくづく思います。
私の部屋はまだ物置部屋のようになっています。
早く、優嵐さんや華さんのような境地になりたいです。
<所有>は、「所有」について、実に鋭く考察した詩だと思います。
「所有されずに所有することはできない」には感動しました。
優嵐さんの今日が素晴らしい日となるように祈っています。
断捨離という言葉、ヨーガから来ているようです。サティシュ・クマールさんの著書を読み始めています。まだ第二章までしか読んでいませんが、この方のお母さんがすばらしいですね。無学で読み書きもできなかったと書かれていますが、クマールさんに言われている言葉がすばらしい。智慧というのは知識や弁論術とは違うと教えられました。
執着を捨てるのは、継続して行うことなのだそうです。これで悟りを開いた、さ、もう執着は全部捨てた、とそういうわけにはいかない。掃除をしたり、歯を磨いたりするようなものです。今日、掃除をしても歯磨きをしても、明日も明後日もやっぱりそれを続けなければいけない。
日常生活がすなわち執着を捨てることにつながるという見方ができるかもしれません。意識が変わり、生活が変わり、それを継続していくことが大事なのだと思います。
日本は、物を捨てる文化の国ですね。割り箸のように、食器を使い捨てする国は他にあまりないと思います。しかし、捨てる際には情があります。物(動産)だけではなく、建物でも壊すときは、あっさり壊します。風水害の多い国だから執着もなかったのでしょう。
捨てるもの、残すもの、両者には一定の線引きがあったはずですが、西洋の概念が入ってきて混乱を極めているのだと思います。
極めて「もったいない」ことになっているのが言葉。背景を複眼的に理解せずに、一瞥するだけで捨てられていきます。言葉を綴る人間は、道具としての言葉がないので、プロの詩人さんは物凄く苦労しています・・・。
所有。奥深い詩です。でも私は、まだまだ所有したいです。所有する為に、ひとりで京都に出てきたといっても過言ではありません。
断捨離の背景にあるのは、単に「モノを捨てる」ということではないようです。モノを捨てるのは、誰しも実は、苦痛なのですね。所有の瞬間が快感なのは同じで、だから、食べること、買うことは楽しみになり注目されても、排泄すること、処分することは覆い隠されてしまう。
苦痛だから溜め込んでしまう。楽しみ(入口)は諦めたくないのに処分(出口)は見ずに済ませたいとどこかで思っているから、所有のバランスシートが崩れてしまうのです。
日本で割り箸を使い捨てにしてきたのには「穢れ」とか「禊」「祓い」という概念があるのではないか、と思います。こういうことを考え出すと風土や文化の考察にまでいたるでしょうね。
所有について、所有したいというのは、人間として当然だと思います。特に若いときは。もっと欲しいというのがいわば生きるエネルギーになっている、とも思いますから。ただ、所有ということが、本当にできるものかどうか、考えますね。すべては一時的なもので、自分のいのちさえ、究極的には自分のものではない。そう気づいたら、所有って何かな、と思います。