□◆□…優嵐歳時記(2380)…□◆□
紅葉散りいよいよ空の透けている 優嵐
最近、あまり本を読みたいと思わなくなりました。絵を描いているということもあるのですが、その少し前からその傾向がありました。「活字中毒」といっていいくらい本が好きだったので、こんな風に考えるようになるとは、と驚いています。
本を読むよりも、自分で考えたいと最近は感じます。ショウペンハウエルが『読書について』の中で「読書は他人にものを考えてもらうことである」と述べています。なんとなくこの意味するところが少しわかってきたかもしれない、と思っています。
書物というのは、その著者のものの見方、世界観の反映です。活字になっているからといってそれが「正しい」わけではありません。ひとつの見解にすぎないのです。その見解を参照するのが読書という行為です。参照するのも確かに大事ですが、では、自分はどう考えるのか、です。
自分で考えて気づく、そのことが多分一番面白いし、本当に血肉になるのはそれだけじゃないか、と思うようになりました。また、自分の内側から来るものに耳を傾ける、その時間を持つこともとても大事です。
<波>
この世界の存在のすべては波のようなものだ
海から生まれ海に戻る
津波も小波もともに波であり
同じ海の違う姿にすぎない
波頭の先端にいれば
隣の波とは何の関係もないように思える
けれど
波はすべて同じ海から生れている
たとえ何万キロも離れていようとも
波自身の中には
「自分は波であって海など無い」
と言うものもいる
海はただ笑っているだろう
自分よりはるかに大きなもののことを
完全に理解するすべはない
その片鱗を感じ取るだけ
紅葉散りいよいよ空の透けている 優嵐
最近、あまり本を読みたいと思わなくなりました。絵を描いているということもあるのですが、その少し前からその傾向がありました。「活字中毒」といっていいくらい本が好きだったので、こんな風に考えるようになるとは、と驚いています。
本を読むよりも、自分で考えたいと最近は感じます。ショウペンハウエルが『読書について』の中で「読書は他人にものを考えてもらうことである」と述べています。なんとなくこの意味するところが少しわかってきたかもしれない、と思っています。
書物というのは、その著者のものの見方、世界観の反映です。活字になっているからといってそれが「正しい」わけではありません。ひとつの見解にすぎないのです。その見解を参照するのが読書という行為です。参照するのも確かに大事ですが、では、自分はどう考えるのか、です。
自分で考えて気づく、そのことが多分一番面白いし、本当に血肉になるのはそれだけじゃないか、と思うようになりました。また、自分の内側から来るものに耳を傾ける、その時間を持つこともとても大事です。
<波>
この世界の存在のすべては波のようなものだ
海から生まれ海に戻る
津波も小波もともに波であり
同じ海の違う姿にすぎない
波頭の先端にいれば
隣の波とは何の関係もないように思える
けれど
波はすべて同じ海から生れている
たとえ何万キロも離れていようとも
波自身の中には
「自分は波であって海など無い」
と言うものもいる
海はただ笑っているだろう
自分よりはるかに大きなもののことを
完全に理解するすべはない
その片鱗を感じ取るだけ
コメント
コメント一覧 (2)
今朝の川越は晴で寒いです。
私も最近は以前ほど本を読まなくなりました。
どうしても読みたい本は、ほとんど図書館から借りて読みます。
断捨離を実行して、残った本は、聖書、実用書、ノンフィクションの一部の本、そして『君あり、故に我あり』といった真に素晴らしい、手元に置いておかずにはいられない本だけです。
ショウペンハウエルの『読書について』は読んだことはありませんが、彼の言っていることは正しいと思います。
尊敬する経済学者の故E.F.シューマッハーは、著書の中で「我々は理性よりもはるかに経験に依存しているのであって、その知識は小さくて不完全なものである」と述べています。
私も、本ばかり読んでいた学生時代と違って、今は経験の大切さを痛いほど理解しています。
鬱病ですが、可能な限り人との付き合いを大切にし、人から学んで、それを自分に活かすように努力しています。
しかし、一方では本から得られる知識の大切さは厳然としてあることも事実です。
優嵐さんの言うように、人の経験や本などから得られた知識を基に、自分で考えて判断し、生きていきたいと思います。
それから、自分の内側から来るものに耳を傾ける時間を持つこともとても大事ですね。
<波>は、哲学的でいい詩ですね。
まさに、私たちは、「理解できないものがあるということを理解しなければならない」と思います。
優嵐さんの今日がよきものでありますように。
本を読む人が少なくなったので、読書の大切さがメディアでさかんに言われます。確かに読書は広大な世界を開いてくれ、すでに故人となった人とも対話できるすばらしい活動です。ただ、それだけではダメだな、と感じるようになりました。この「メディア」が曲者というか、洪水のように情報が押し寄せるため、大声で言われていることはいかにも「正しい」ことのようについ感じそうになります。
いつの時代もおそらくそうで、扇動者はそれをうまく利用しました。そうならないためには、ものごとの本質を自分で考え、自分で判断するという訓練をしなければいけません。頑固に他人の意見を受け付けないというのではなく、柔軟でありながら、「そういうものの見方もあるが、自分はこう考える」という姿勢を持つことです。
これは情報の断捨離かもしれない、と思います。情報量が破壊的に大きくなる中では、メディアから流れてくるもの(たとえ活字でも)を受けるばかりでは、溺れてしまいます。
どの程度の読書量が適切か、はその人の立場や経験によって違うでしょう。全く本を読まないというのはもったいないと思いますし、考える素材を得ることもできません。
フクヤンさんの今日がよきものでありますように。