□◆□…優嵐歳時記(2429)…□◆□
寒林は日差しの中で揺れている 優嵐
葉の落ちた冬の林を「寒林」といいます。この時期の落葉樹は完全に裸であり、枝の姿をはっきり見せてくれます。空は青く風は冷たく、寒々としている一方、来る春に向けて、すっきりとした明るさを感じます。
絵の下描きを描くのに、今まで0.9mmのシャープペンを使ってきましたが、先日新しく 1.3mmシャープペンシル(ぺんてる)を手に入れました。マークシート用に開発されたもので、「マークシートシャープ」と銘打ってあります。考えるものだなあと感心しました。
マークシートセットとして消しゴムと芯がセットになって売られています。消しゴムはともかく、1.3mmの芯はあまり見かけないので、これは便利だと思いました。絵を描いてみると、0.9mmのものより柔らかく描けます。0.9mmでもBや2Bの芯を入れると同じようになるのかもしれませんが、1.3mmのHBでなかなかいい感じです。
<織物>
あまり楽しくないことをするとき
できるだけそのことを考えまいとする
何か別の楽しいこと好きなことを考えて
気持ちを紛らわそうとする
けれどそれは間違いだ
楽しくないことも
楽しいことと同じように十分味わう
どちらもかけがえのない一瞬だから
楽しいことだけで
人生が構成されているわけではない
楽しいこととそうでないことは
人生という織物の縦糸と横糸
どちらか一方だけでは
織りあげられない
あらゆる瞬間を同じように観察し
同じように味わう
それが人生の達人
寒林は日差しの中で揺れている 優嵐
葉の落ちた冬の林を「寒林」といいます。この時期の落葉樹は完全に裸であり、枝の姿をはっきり見せてくれます。空は青く風は冷たく、寒々としている一方、来る春に向けて、すっきりとした明るさを感じます。
絵の下描きを描くのに、今まで0.9mmのシャープペンを使ってきましたが、先日新しく 1.3mmシャープペンシル(ぺんてる)を手に入れました。マークシート用に開発されたもので、「マークシートシャープ」と銘打ってあります。考えるものだなあと感心しました。
マークシートセットとして消しゴムと芯がセットになって売られています。消しゴムはともかく、1.3mmの芯はあまり見かけないので、これは便利だと思いました。絵を描いてみると、0.9mmのものより柔らかく描けます。0.9mmでもBや2Bの芯を入れると同じようになるのかもしれませんが、1.3mmのHBでなかなかいい感じです。
<織物>
あまり楽しくないことをするとき
できるだけそのことを考えまいとする
何か別の楽しいこと好きなことを考えて
気持ちを紛らわそうとする
けれどそれは間違いだ
楽しくないことも
楽しいことと同じように十分味わう
どちらもかけがえのない一瞬だから
楽しいことだけで
人生が構成されているわけではない
楽しいこととそうでないことは
人生という織物の縦糸と横糸
どちらか一方だけでは
織りあげられない
あらゆる瞬間を同じように観察し
同じように味わう
それが人生の達人
コメント
コメント一覧 (4)
今朝の川越は快晴。
気温は氷点下1℃で非常に寒いです。
いい俳句ですね。
寒林(これは『広辞苑』に冬の季語として載っていました。)が冬の淡い陽射しの中で、来る春に向けて、じんわりと、ゆるやかに成長している様が思い浮かびます。
秀逸です。
「マークシートシャープ」などというものがあるのですね。
私が大学を受験した頃(まだ共通一次試験でした。)は、そんなものはなく、鉛筆を何本かと鉛筆削りを試験会場に持っていきました。
また一つ、優嵐さんの画材が豊かになりましたね。
それで描かれる絵を楽しみにしています。
<織物>は哲学的な素晴らしい詩ですね。
今朝、『無境界』を読み終えましたが、まさに優嵐さんの詩のようなことが書かれています。
あらゆる瞬間を同じように大切にし、味わい、生きる。
それができる人は、まさに人生の達人でしょう。
私も、そうありたいものです。
優嵐さんの今日がよきものでありますように。
姫路は快晴です。空が青く地上は霜で白く、典型的なこのあたりの寒の朝です。
道具は人間が生み出したものですが、道具が人間生活を変え、人間を変えてきたということについて書いた本を読んだことがあります。最近ではインターネットがその典型ですが、古くはポット(これに食べものを入れて煮炊きできるようになった)から、車輪、暦、農業、新聞、銀行といったものまであり、なるほどねえ、と関心しました。
画材も新しいものが開発されることによって、新しい表現方法が生み出されてきた分野だと思います。すべてはつながっている、ということですね。
<織物>は二元論を超えることのひとつの考え方として、ふと思いつきました。地と図の関係でもありますね。地がないと図はなりたたない。陰陽でもあります。
フクヤンさんの今日がよきものでありますように。
優嵐さんから教わった『無境界』(ケン・ウィルバー著)を読み終えたので、私なりの感想を送りたいと思います。
題名から連想したのは、まず『君あり、故に我あり』でしたが、あながち当て外れではなかったように思います。
『君あり、故に我あり』のソウル(心)にフォーカスした本のように感じました。
まず、私たちが抱えている問題の大半は「境界とそれが生み出す対立の問題」というところに打たれました。
本の前半は、このことに、特に「境界とは何か」についてわかりやすく書かれていて、同意しつつ読むことができました。
特に、世界が無境界であることを明らかにすることは、全ての争いが幻想であることを明らかにすることだ、という文には強く魅かれました。
優嵐さんが、この本から強いインスピレーションを受けていることもわかりました。
その他、あまりにも意外なことも書かれていて、納得するまでにかなり時間がかかりそうなところも多かったです。
例えば「あらゆる時間が彼の内にあるからである」という文章は、初め一種の形容矛盾のように思え、納得できませんでした。
そのとき、優嵐さんが詩に詠まれた「今、ここ、自分自身がすべて」という言葉を思い出し、それと強い関係があることがわかりました。
本の後半の「治療法」については、はっきり言って難しすぎてわからないところが多かったです。
「ケンタウロスのレベル」までは、何とかついていけましたが、「超越的自己」からは、はっきり言って「お手上げ」の状態になりました。
特に、ユングの説は受け入れ難かったです。
この本は、借り続けて、2回ぐらい熟読する必要がありそうです。
以上、拙文ですが、最後まで読んでいただいてありがとうございました。
これからも、よろしくお願いします。
フクヤン
私の覚え書きについては別のブログ「COXの読書ノート」に記しています。
http://cox.cocolog-nifty.com/cox/2011/01/post-5860.html#more
私自身は「超越的自己」というところが一番興味深く面白かったです。その次の統一意識はまだ難しく、「う〜ん」でしたが。すべてから隔絶した個別的自己がある、ということが境界があるという幻想の基盤だと思いますね。
そして、なぜかこの世を生きていくには、自己と非自己を厳然と分ける必要があります(便宜上だとしても)。これほどまで境界にとらわれるのは、この世を生きていく以上しかたがないことなのだろうと思うのですね。で、もしかしたら、このとらわれを脱ぎ捨てる訓練のためにいまここに来ているのかもしれない、と思います。
個別的自己が幻想だというのは、論理的にもよくよく考えてみればわかることです。今、自分を形づくっている物質的なものは、たとえば一年前は全部自分じゃなかったものばかりですよね。
毎日同じものを食べている家族であっても、それらは別の「個人」になります。この「個人」を形づくるものは、では何なのか、と考えると不思議です。遺伝子だとかいうのが科学的考え方ですが、ではその遺伝子配列を決めるものは何か、となると堂々巡りになってしまいます。
自己が自己であるという感覚をたどっていくと、個別的自己は消える、自己が自己だという極めて自分中心の部分を辿っていくと普遍的、超越的自己へとつながるというのは、とてもおもしろい考え方であり、確かにそうだろうと感じました。
ケン・ウィルバーの著作をしばらく読み続けます。