□◆□…優嵐歳時記(2504)…□◆□
雉鳴いてわが足元をたつ真昼 優嵐
市川の川べりを散歩していたら、足元にやや大きめの鳥がいる気配がしました。アオサギだろうか、と思ってのぞきこんでみると二羽のキジが慌しく飛び立って行きました。その前に鳴声が聞こえ、「そうか、これはキジだったのだ」と初めてこの声の主に気がつきました。
キジの鳴声をお聞きになったことがあるでしょうか? 「キジは日本の国鳥で、草原や雑木林などに住み、春は雄がケーンケーンと雌を呼ぶ恋の声を放つ」と歳時記にはあります。この「ケーンケーン」ですが、私にはそうは聞こえませんでした。
この声は春になってからずっと耳にしていたのです。そして、どこかの家でニワトリでも飼っておられるのか?と思っていました。フォーンフォーンというか、鳥類の声には間違いないのですが、姿を見てようやく、「ケーンケーン」に納得しました。そう聞こえないこともないな、と。キジは日本特産の大形の鳥で、留鳥ですが、この声から春の季語になっています。
<未来の顔>
ものごとにはいろいろな面から
スポットライトをあててみないといけない
すべてがOKで素晴らしいというものはない
そのなかで何を重視して取捨選択していくか
人間にできることはそれだけ
いいも悪いも
長所も短所も
それはそのものをどう見るかによる
かたくなにただひとつの方向からしか
ものを見ないというのは
人間のおかす最大の過ちだ
正しいとずっと言われてきたことが
ある時点から全く逆になっていることもある
世界は変わっており
この瞬間に新しい世界が生まれている
雉鳴いてわが足元をたつ真昼 優嵐
市川の川べりを散歩していたら、足元にやや大きめの鳥がいる気配がしました。アオサギだろうか、と思ってのぞきこんでみると二羽のキジが慌しく飛び立って行きました。その前に鳴声が聞こえ、「そうか、これはキジだったのだ」と初めてこの声の主に気がつきました。
キジの鳴声をお聞きになったことがあるでしょうか? 「キジは日本の国鳥で、草原や雑木林などに住み、春は雄がケーンケーンと雌を呼ぶ恋の声を放つ」と歳時記にはあります。この「ケーンケーン」ですが、私にはそうは聞こえませんでした。
この声は春になってからずっと耳にしていたのです。そして、どこかの家でニワトリでも飼っておられるのか?と思っていました。フォーンフォーンというか、鳥類の声には間違いないのですが、姿を見てようやく、「ケーンケーン」に納得しました。そう聞こえないこともないな、と。キジは日本特産の大形の鳥で、留鳥ですが、この声から春の季語になっています。
<未来の顔>
ものごとにはいろいろな面から
スポットライトをあててみないといけない
すべてがOKで素晴らしいというものはない
そのなかで何を重視して取捨選択していくか
人間にできることはそれだけ
いいも悪いも
長所も短所も
それはそのものをどう見るかによる
かたくなにただひとつの方向からしか
ものを見ないというのは
人間のおかす最大の過ちだ
正しいとずっと言われてきたことが
ある時点から全く逆になっていることもある
世界は変わっており
この瞬間に新しい世界が生まれている
コメント
コメント一覧 (4)
今朝の川越は晴。
朝は冬の寒さですが、日中は日に日に暖かくなっています。
雉は、信州大学にいたとき下宿していたアパート(農家でした)の、りんご農園にも巣を作っていました。
そのとき初めて雉を見ましたが、あまりの美しさに驚きました。
雉が春の季語になっていることを初めて知りました。
また一つ勉強になりました。
<未来の顔>は、いい詩ですね。
この瞬間瞬間に新しい世界は生れています。
世界(現実)を直視して、生命にとって最善と思われる選択をして生きていこうと強く思います。
優嵐さんの今日がよきものでありますように。
山で姿を見るのはヤマドリばかりだけど。 蒜仙の冬は雉をタクサン見たよ。
最近は天気の悪い時は菅生川周辺を歩く、これじゃー出会わないね。
キジはちらっと見たことはこれまで何度かあるのですが、鳴声と姿を同時に経験できたのはこれが初めてでした。きれいな鳥ですよね。何ゆえこれほど鮮やかな色になる必要があったのだろう、と思うほど。熱帯の鳥を思わせます。
震災以来、内外のいろいろな人が書いている記事を読んで、人間は「過去」の眼鏡を通してしか未来を見られない存在なのだ、と痛感しています。柔軟であることの重要性をあらためて認識しました。
犬の鳴声が日本語を話す人には「ワンワン」と聞こえ、英語を話す人には「バウワウ」と聞こえるようなものでしょうか。あらかじめ「そう聞こえるものだ」という思い込みがあるからそう聞こえるのかもしれないし、人の聞こえ方がそれぞれ違っている、ということなのかも知れないし。
たかがキジの声なんですが、他の人が自分と全く同じように聞こえているわけではない、ということを認識し、ものごとの受け取り方というのはすべてこういうものなのだと教えられました。人の数だけ感じ方、受け取り方、思い込み方があるということですね。
>最近は天気の悪い時は菅生川周辺を歩く
あはは、そうですね。同じ場所を歩いていても時間帯がずれると、もうそれだけで会いませんよね。