□◆□…優嵐歳時記(2523)…□◆□
快晴が残る桜に広がりぬ 優嵐
日曜は快晴でした。山々から桜色が徐々に少なくなっており、変わって芽吹いた若葉の色が目立つようになりました。その上に広がる真っ青な空、気持ちのいい朝でした。アートワークのために大阪へ行っていました。四月から新年度になり、新しいテーマが始まります。
午前中は昨年度の最後の三ヶ月におこなったバイオグラフィについてお互いの経験をシェアしあいました。私は先月が発表だったので、その振り返りもおこないました。他の方の振り返りも聞きながら、人はいろいろなんだなあとあらためて思いました。
今更そんなこと、と思いますが、こういうことは何度もくり返し落とし込んでいかないと、つい忘れます。いえ、忘れない人もあるのかもしれません。そんなことは自明の理である、とわかっていて日々行動に反映させているという人も。しかし、私の場合は違います。
人間(私)は自分の視点というものしか持てません。そして、ついそれがあたり前のことになってしまうのです。「自分はこう思う、こう感じる」、そこから「だから他の人もこう思い、こう感じるだろう」、と飛躍してしまうのです。そして誤解が生まれます。
思春期のころ、人間は結局一人一人が別の金魚鉢に閉じ込められているようなもので、他の人のことは決して理解できないのだ、と気づいて驚いたことがあります。どれほど愛し合っている、無二の親友である、といっても、相手の頭脳で考え、相手の心で感じることはできません。
また人は常に変化しています。だから常にすべての場合にあてはまる公式などというものはなく、それは自分自身にさえ言えることです。3年前の自分と今の自分は違うし、3年後の自分ともまた違っています。
これからの三ヶ月は「ステップワーク」として、エリザベス・キューブラー=ロスが提唱した「死の受容の五段階」についてアートワークを行います。これは、不治の病を宣告された患者が辿るといわれている心理過程を「否定→怒り→取引→鬱→受容」で表したもので、これは死に限らず、あらゆる喪失を受け入れる過程で人が辿る心理状態だと言われています。
日曜はこのうちの否定と怒りについて絵を描きました。まず、「否定」ですが、私は赤と黒の二色で塗り分けた観音開きの扉がぴしゃっと音を立てて閉まっているところを描きました。とりあえず今直面している大変なことをシャットアウトしたい、落ち着いたら扉を開けて向こうをのぞいてみよう、というわけです。
次の「怒り」の方が描くのはやや難しい感じでした。本当に怒りを感じると、私の場合、怒りに燃える、というよりはしーんと冷える感じです。そこで、青い水面の上に赤い稲妻のようなものが出ている絵を描きました。しかし、この稲妻に関しては、「怒りとはこういうものだろう」というイメージが勝っていたように思います。
また、最近はあまり怒りを感じることがなくなっているという事実もあります。これは2009年の春以来劇的に変わりました。怒りを覚える人は、外から何らかの力によって自分は怒らされていると思いこんでいるのですが、実は違います。その人は怒りたいから怒っているのです。
ブッダはその教えの中で「怒らないこと」を最重要項目にあげています。私は別に熱心な仏教徒ではありませんが、これは何かわかるような気がします。怒りは相手に向くだけでなく、自分自身をも焼き尽くす煩悩の炎です。怒りという馬車の手綱をしっかりと握り、それを制御しなさい、とブッダは言っています。大半の人はただ馬車に乗せられて、それが好きなように走るままにしているのです。
快晴が残る桜に広がりぬ 優嵐
日曜は快晴でした。山々から桜色が徐々に少なくなっており、変わって芽吹いた若葉の色が目立つようになりました。その上に広がる真っ青な空、気持ちのいい朝でした。アートワークのために大阪へ行っていました。四月から新年度になり、新しいテーマが始まります。
午前中は昨年度の最後の三ヶ月におこなったバイオグラフィについてお互いの経験をシェアしあいました。私は先月が発表だったので、その振り返りもおこないました。他の方の振り返りも聞きながら、人はいろいろなんだなあとあらためて思いました。
今更そんなこと、と思いますが、こういうことは何度もくり返し落とし込んでいかないと、つい忘れます。いえ、忘れない人もあるのかもしれません。そんなことは自明の理である、とわかっていて日々行動に反映させているという人も。しかし、私の場合は違います。
人間(私)は自分の視点というものしか持てません。そして、ついそれがあたり前のことになってしまうのです。「自分はこう思う、こう感じる」、そこから「だから他の人もこう思い、こう感じるだろう」、と飛躍してしまうのです。そして誤解が生まれます。
思春期のころ、人間は結局一人一人が別の金魚鉢に閉じ込められているようなもので、他の人のことは決して理解できないのだ、と気づいて驚いたことがあります。どれほど愛し合っている、無二の親友である、といっても、相手の頭脳で考え、相手の心で感じることはできません。
また人は常に変化しています。だから常にすべての場合にあてはまる公式などというものはなく、それは自分自身にさえ言えることです。3年前の自分と今の自分は違うし、3年後の自分ともまた違っています。
これからの三ヶ月は「ステップワーク」として、エリザベス・キューブラー=ロスが提唱した「死の受容の五段階」についてアートワークを行います。これは、不治の病を宣告された患者が辿るといわれている心理過程を「否定→怒り→取引→鬱→受容」で表したもので、これは死に限らず、あらゆる喪失を受け入れる過程で人が辿る心理状態だと言われています。
日曜はこのうちの否定と怒りについて絵を描きました。まず、「否定」ですが、私は赤と黒の二色で塗り分けた観音開きの扉がぴしゃっと音を立てて閉まっているところを描きました。とりあえず今直面している大変なことをシャットアウトしたい、落ち着いたら扉を開けて向こうをのぞいてみよう、というわけです。
次の「怒り」の方が描くのはやや難しい感じでした。本当に怒りを感じると、私の場合、怒りに燃える、というよりはしーんと冷える感じです。そこで、青い水面の上に赤い稲妻のようなものが出ている絵を描きました。しかし、この稲妻に関しては、「怒りとはこういうものだろう」というイメージが勝っていたように思います。
また、最近はあまり怒りを感じることがなくなっているという事実もあります。これは2009年の春以来劇的に変わりました。怒りを覚える人は、外から何らかの力によって自分は怒らされていると思いこんでいるのですが、実は違います。その人は怒りたいから怒っているのです。
ブッダはその教えの中で「怒らないこと」を最重要項目にあげています。私は別に熱心な仏教徒ではありませんが、これは何かわかるような気がします。怒りは相手に向くだけでなく、自分自身をも焼き尽くす煩悩の炎です。怒りという馬車の手綱をしっかりと握り、それを制御しなさい、とブッダは言っています。大半の人はただ馬車に乗せられて、それが好きなように走るままにしているのです。
コメント
コメント一覧 (8)
行き先は知らない初めての道ばかりだし・・・。
誰かが操る道を間違えない馬車が有ったら乗りたいねー。
政府も与党で決められないから野党に決めてくれ?
野党は政府が方針を出さないから意見が出せない。 マーそんなものだねー。
>自分で馬に乗ったり馬車を操縦するのは疲れるねー。
結局、自分で責任をとるのが怖いんですよね、ほとんどの場合。被害者になって人のせいにしていれば楽ですから。でも結局それでは自分の成長というものはない。この世ですべきことは「社会改革」ではなく、自分自身の改革、自分自身を成長させること、それだけ。実際、そのことしかできないですよね。
気の短い私には、「とても無理かもしれない」と思いつつ、心に留めています。
今回の原発震災では、政府と東電の幹部の無責任な対応に怒りがおさまりかねています。
私も原発で発電された電気の恩恵を受けてきたので、矛盾するのにもかかわらずです。
尊敬するマザー・テレサ、キング牧師らは、いわゆる非暴力コミュニケーションの達人でした。
私も、どんなときでも人間としての尊厳を失わなかった彼女、彼に倣いたいです。
敵を作らない人間になりたいです。
そのために努力します。
私も短気というか、いらだちやすい人間です。ただ、怒りは結局自分に向かって自分を滅ぼすものだというのは、何となく理解できるようになりました。損得とかそういうのでなく、一言で言うと、「魂に悪い」そんな感じですね。
怒りは怒りを呼び、人を狂わせます。ブッダやムハンマドだけでなく、イエスもたしか、「汝の敵を愛し、汝を迫害するもののために祈れ」と言っていますよね。怒りに怒りで対応するからいつまでたっても争いはおさまらない。赦しとは、怒りに怒りをもって対処しないことだと思います。
確かに「怒り」というのは厄介な感情です。僕の従弟はいま40代前半ですが、高校生の頃から心の病気で、いまでも親に対しての「怒り」の感情を抑えられない時があるんです。もちろん長年様々な精神科の治療を受けてきてるので、自分の「怒り」の原因や発生プロセスを彼は深く理解しています。しかし論理的に理解していても感情は論理を超えて爆発することがあるんですね。そこが難しいですね。
たしか、テーラワーダ仏教のスマナサーラさんが著書で「怒り」について触れていたかと思いますが、お釈迦さんはすごいですよね。
ステップワークは、実は簡単のように思えて難しいワークです。
自分が、否定していることを分かっていない人や怒りの状態を分かっていない人が結構います。
絵に描いてもらい、話を聞くと良く分かります。
見えているようで実は余り良く観えていないですね。
今日は岡山でしたが、きっちり描けているのは2人ぐらいでした。
また来月が楽しみですね。
この五段階はあらゆる喪失の過程、たとえばコンタクトレンズをなくしたというようなことから、子どもを失うというようなことまで心理過程として見られるそうです。
従弟の方、大変ですね。つらいだろうなあ、と思います。スマナサーラさんの著書に『怒らないこと』という本がありますよね。「自分が正しいと思っているから怒る」というのは全く耳が痛いことです。
ワークは簡単に見えてどれもなかなか難しいと思います。「怒り」というものが何か、どういう状態かがはっきりわからないかもしれない、とも思います。
家に戻ってこうして書いてみると、ワークの直後とはまた違うことに気づいたりします。ここがおもしろいところですね。