□◆□…優嵐歳時記(2550)…□◆□
若楓開山堂の屋根光る 優嵐
「若楓」とは、楓の若葉をさす季語です。若葉のなかでも特に明るく美しく単独で季語になっています。新葉の色が初々しいのは五月半ばあたりまでで、その後は日増しに緑の色が濃くなっていきます。増位山の頂のベンチも冬は日があたっていましたが、今は周りの木々が茂り、木陰になっています。
落葉樹にとっては一刻も早く葉を展開し、光合成をおこなって成長しなければいけません。考えてみれば、落葉するというのは、動物で言えば冬眠するのと同じ状態だといえるわけですね。増位山の蛇ヶ池周辺ではタンポポに変わってヒメジョオンがいっぱい咲いています。なんだかわからない茸も育っていますし、枇杷の実が少しずつ大きくなっています。
<つもり>
写生によって絵を描くようになって
つくづく思うのは
人はほとんど何も見ていないのかもしれない
ということだ
描いてみて初めて
ほんとうに見ることができたものがいくつもある
子どもの時も写生をした
あれは何だったのか
見ているようで見ていない
見てはいるが観てはいない
単に見たつもりになっているだけ
与えられている五感のすべて
私たちはどこまでそれを使えているだろう
若楓開山堂の屋根光る 優嵐
「若楓」とは、楓の若葉をさす季語です。若葉のなかでも特に明るく美しく単独で季語になっています。新葉の色が初々しいのは五月半ばあたりまでで、その後は日増しに緑の色が濃くなっていきます。増位山の頂のベンチも冬は日があたっていましたが、今は周りの木々が茂り、木陰になっています。
落葉樹にとっては一刻も早く葉を展開し、光合成をおこなって成長しなければいけません。考えてみれば、落葉するというのは、動物で言えば冬眠するのと同じ状態だといえるわけですね。増位山の蛇ヶ池周辺ではタンポポに変わってヒメジョオンがいっぱい咲いています。なんだかわからない茸も育っていますし、枇杷の実が少しずつ大きくなっています。
<つもり>
写生によって絵を描くようになって
つくづく思うのは
人はほとんど何も見ていないのかもしれない
ということだ
描いてみて初めて
ほんとうに見ることができたものがいくつもある
子どもの時も写生をした
あれは何だったのか
見ているようで見ていない
見てはいるが観てはいない
単に見たつもりになっているだけ
与えられている五感のすべて
私たちはどこまでそれを使えているだろう
コメント
コメント一覧 (6)
皆にフタリシズカを見せるのが主目的。
帰り際にクチナシグサを見せて実は私はコレを見に来たのだと。
地面を這う小さな花に、皆さんなぜコンナのが目に付くのと言っていた。 10年も花の写真撮っていると見えてくるのだねー。 ハハハ
今朝の那覇は曇。
少し寒いので長袖シャツとトレパンを着ています。
いい俳句ですね。
「若楓」という夏の季語を初めて知りました。
楓の若葉の美しさが目に浮かぶようです。
増位山は、さながら植物園のようですね。
<つもり>は、私たちが、いかに固定観念によってモノを観ているかをよく表しています。
高校1年のとき、美術部で夏休みに海へ写生旅行へ行ったとき、海を青く描いたら先輩に「君は海を固定観念で描いている」と批判されました。
中学の美術部で石膏デッサンはずい分やったので、形を正確に描くことはできるようになっていましたが、色彩については固定観念がこびりついていました。
その後、モネの画集で風景画を観るようになってから、色彩の表現の多様さに気付くようになりました。
与えられている五感をフルに使って表現できるようになりたいです。
人間にはたぶん、いわゆる第六感というものも与えられているように思うのですが、五感もさることながら、この第六感については、むしろ怪しいものとさえ思っている人もいるかもしれません。
その点、人間以外の生きものは、人間ほどバランスのよい五感をもたないせいでしょうか、第六感を実にうまく使って生きていると思います。
バランスのよい五感をもつ人間が、第六感を上手に使えるようにならないものでしょうか〜(^^)
クチナシグサ、小さい可憐な花ですね。通になってくると、こういう花のよさがじんわりしみてくる、ということでしょうか。
カエデの若葉はフレッシュで美しいです。この美しさは俳句をするようになて初めて気がつきました。
色は光の当たり具合で全く変わりますね。海は青、山は緑、雲は白というのは一種の記号です。それが便利なこともありますが、よく見るというのは、その「記号」を外してものを新たな角度からみることなんだということがわかります。ものの形もそうですね。
第六感、確かに。ただ、これは気づかなくても多分使っているんだろうなあと思います。好き嫌いも考えてみれば何かの理屈ではないですよね。本能的というか…。ぴんと来たというのは誰しもあるかな、と。ただ、そういうことを信じない人がいて、理屈をつけようとすると、道を誤るような(^^ゞ
禅に「ニ念をつがない」というのがあるそうで、これって、言葉を変えれば、最初にぴんときたものを信じるということではないかしらん、と思います。