□◆□…優嵐歳時記(2559)…□◆□
不如帰遠く近くに木の間より 優嵐
月曜は一日雨模様で、夕方になってからは風交じりの強い雨になりました。日曜に森へ行くと不如帰(ほととぎす)のさえずりがよく聞こえました。ホトトギスは夏鳥として九州以北の日本にやってきます。姫路周辺ではよく声を聞くことができますが、地域によってはあまり来ないところもあるようです。
囀りは「特許許可局」とか「テッペンカケタカ」とききなされますが、やはり一度聞かないとわからないと思います。夜にも鳴声を聞くことがあり、これを忍音(しのびね)といいます。『夏はきぬ』で「ホトトギス はやもきなきて しのびねもらす」と歌われています。先日は朝のまだ暗い内に鳴いている声を夢うつつで聞いていました。
<if>
「もしあのときこうだったら」
そう考えて人は自分の人生を振り返る
もしあの人と出会っていなければ
もしあの仕事を選んでいなければ
もしあの道を通らなければ
それは無い
偶然は必然であり
あなたがいまそこにそのように存在しているのは
その道を通ってきたからだ
他の道を通っていれば
あなたはあなたではなくなる
不如帰遠く近くに木の間より 優嵐
月曜は一日雨模様で、夕方になってからは風交じりの強い雨になりました。日曜に森へ行くと不如帰(ほととぎす)のさえずりがよく聞こえました。ホトトギスは夏鳥として九州以北の日本にやってきます。姫路周辺ではよく声を聞くことができますが、地域によってはあまり来ないところもあるようです。
囀りは「特許許可局」とか「テッペンカケタカ」とききなされますが、やはり一度聞かないとわからないと思います。夜にも鳴声を聞くことがあり、これを忍音(しのびね)といいます。『夏はきぬ』で「ホトトギス はやもきなきて しのびねもらす」と歌われています。先日は朝のまだ暗い内に鳴いている声を夢うつつで聞いていました。
<if>
「もしあのときこうだったら」
そう考えて人は自分の人生を振り返る
もしあの人と出会っていなければ
もしあの仕事を選んでいなければ
もしあの道を通らなければ
それは無い
偶然は必然であり
あなたがいまそこにそのように存在しているのは
その道を通ってきたからだ
他の道を通っていれば
あなたはあなたではなくなる
コメント
コメント一覧 (4)
今朝の那覇は雨。
まだまだ梅雨は続きそうです。
週末には台風2号も襲来しそうなので、そろそろ食料を買い溜めしておこうと思っています。
ホトトギス、懐かしいです。
生れて初めてホトトギスの鳴き声を聞いたのは、大学時代を過ごした長野県の松本でした。
松本は標高800mくらいの高地ですが、近くに美ヶ原高原という2,000mくらいの高原があります。
5月のよく晴れた日に友人と自転車で(!)登ろうと計画し、実行しました。
登るのに恐ろしく苦労しましたが、その途中、不意に「ホ・ト・ト ギス」という鳴き声を何回も聞きました。
姿は見えませんでしたが、ホトトギスの名前が鳴き声から来ているのだなと実感しました。
懐かしい思い出です。
<if>は、まさしくその通りです。
この世に偶然はありません。必然だけです。
それでも、「if」を考えてしまうところが、人間の悲しいところです。
亡くなった将棋の大山名人は「記憶に残して忘れよ」という言葉を残しました。
矛盾するような言葉ですが、失敗を繰り返さないために大事だと思います。
台風が近づいているのですか。週末はこちらも雨のマークの予報が続いています。そういうわけだったのですね。
>登るのに恐ろしく苦労しましたが
24段変速がついたような本格的な自転車でさえ、こういうところを走るのは一苦労です。まして、そういうのがないママチャリみたいなものなら、もう大変な苦労だったでしょう。お察しします。
以前読んだ本で、「シンクロディスティニイ」という考え方が示されていました。今いる時点から5年前に遡ってここまでの人生をたどってみれば、偶然が必然となり、その道を導いているのがわかるだろう、というのです。人間が頭で考えて判断することよりもはるかにきっちりとした道筋がある…、そういうことですね。だから、「お任せする」というのは賢明な方法であろうと思います。
「if」という詩。う〜ん、どうかなぁ・・・ちょっと腕組みして考えてしまいました。「偶然はない」という考え方は、潔いと思います。他方「人間は環境と素質に決定されながらそれでも個々の判断の場面では主体的に決定できるのではないか」という考え方があります。後者ゆえ、人間は後からifを立てて、あれこれと後悔するのだと思います。それもまた、人間の面白さなのでしょう。
いずれ、両者の考え方の相違は、刑法学を素材にどこかで日記に書いてみたいと思います。
<if>は、「人間は物語を生きている」ということを示しています。犯罪者を法で裁きますが、それは社会としての一応の物語の結末のつけ方ですよね。しかし、犯罪の被害にあった人はその後も長く苦しみ続けます。もちろん大事な人を失ったとか、そういう理由が一番ですが、そこに「意味」や納得のいく「物語」を見出せないからではないか、と思っています。
何が客観的シンジツか、は実際のところ人間にはわかりません。わかると思っている人は「わかるはずだ」という、そういう「物語」を信じているのです。犯罪の動機などというのも、奇妙な犯罪になればなるほど誰も、犯人にさえわけがわからないものが少なくありません。
実際、人間は自分で考え、自分で理性的に判断してすべてをおこなっていると思っている人が多いですが、本当はどこまでそうなのかわかったものではありません。さらに、たとえ自分はそうできていると信じている人がいたとして、隣の人もそうなのかどうかはその人にはわかりようがありません。
ただ、そういう中で、それでも日々を納得して生きていくためには、それぞれの物語のオトシドコロを探しながら、とりあえずの句読点を打っていく必要があります。
そういう意味での「偶然はない」です。