□◆□…優嵐歳時記(2560)…□◆□
若葉雨降りてもやみても明るかり 優嵐
若葉のころに降る雨を「若葉雨」といいます。晴れていれば日差しが強くなり、若葉に照り映えて輝きます。雨が降っても雨に濡れた若葉は明るく、五月の太陽の余韻がそこに残っているようです。「若葉雨」を変換したら、「若葉飴」と最初に出て、ここが日本語のおもしろいところだと感じました。
同音異義語が多くて意味を散り違えやすいという問題があるのですが、その一方で、それゆえに思わぬ発想の拡大やつながりが生まれます。「若葉飴」なんて、季節モノの新製品の名前にできるのでは、と思いました。淡いグリーンの飴です。ミントの味でも、新茶の味でもいいような。
日本語は私たちが使っている道具である一方、日本語によって私たちは考え方や発想の仕方をはじめ、想像もできないほど大きな影響を受けています。それは言葉というあまりにも日常的なものであるため普段意識することはありません。しかし、「飴」と「雨」が即座に繋がる文化風土を持っているのはとてもユニークであり、ユニークさこそグローバル社会では最も大事にしていくべきものだと思います。
<アゲハたち>
頂に出ると蝶が乱舞していた
クロアゲハとモンキアゲハは
優雅に影から日向を縫ってゆらゆらと飛ぶ
アオスジアゲハたちは集団で
飽きずに追いかけっこを続ける
目にもとまらぬ速さで
三次元を縦横に入れ替わる複雑なチェイス
翅のスカイブルーのストライプが
五月の日差しに透けて輝く
あんなに激しく自在に空間を飛び回れたら
どんなに楽しいことだろう
若葉雨降りてもやみても明るかり 優嵐
若葉のころに降る雨を「若葉雨」といいます。晴れていれば日差しが強くなり、若葉に照り映えて輝きます。雨が降っても雨に濡れた若葉は明るく、五月の太陽の余韻がそこに残っているようです。「若葉雨」を変換したら、「若葉飴」と最初に出て、ここが日本語のおもしろいところだと感じました。
同音異義語が多くて意味を散り違えやすいという問題があるのですが、その一方で、それゆえに思わぬ発想の拡大やつながりが生まれます。「若葉飴」なんて、季節モノの新製品の名前にできるのでは、と思いました。淡いグリーンの飴です。ミントの味でも、新茶の味でもいいような。
日本語は私たちが使っている道具である一方、日本語によって私たちは考え方や発想の仕方をはじめ、想像もできないほど大きな影響を受けています。それは言葉というあまりにも日常的なものであるため普段意識することはありません。しかし、「飴」と「雨」が即座に繋がる文化風土を持っているのはとてもユニークであり、ユニークさこそグローバル社会では最も大事にしていくべきものだと思います。
<アゲハたち>
頂に出ると蝶が乱舞していた
クロアゲハとモンキアゲハは
優雅に影から日向を縫ってゆらゆらと飛ぶ
アオスジアゲハたちは集団で
飽きずに追いかけっこを続ける
目にもとまらぬ速さで
三次元を縦横に入れ替わる複雑なチェイス
翅のスカイブルーのストライプが
五月の日差しに透けて輝く
あんなに激しく自在に空間を飛び回れたら
どんなに楽しいことだろう
コメント
コメント一覧 (4)
今日の那覇は曇。
少し蒸し暑いです。
「若葉雨」、夏の季語ですね。梅雨晴れの沖縄にも相応しい言葉だと思います。
「わかばあめ」を変換したら「若葉飴」と出たのはおもしろいですね。
優嵐さんのいうように私たちは言葉によって信じられないほどの影響を受けています。
言葉の僅かな差で人間関係や人生までもが簡単に反転します。
私たちの母国語である日本語を大事にして、しすぎることはないと思います。
<アゲハたち>は蝶をよく観て詠んでいますね。
特に印象深いのはアオスジアゲハです。
子供のころまず昆虫図鑑でこの蝶のことを知りましたが、実際に初めて見たときの感動は忘れられません。
水色の筋の入った羽が煌めき、あまりの美しさにしばし呆然としました。
増位山の頂は蝶の楽園ですね。
沖縄の梅雨明けは間もなくですね。もうビーチで泳いでいる人もいるでしょう。
中学生のころ、英語のテストで苦労して、日本語じゃなく英語を母国語にすればいいのにと思った事がありました。しかし、今は日本語を大事にすることが日本が国際社会でこれからも力を発揮するための一番の道だと考えています。
震災での日本人の冷静さ、治安のよさ、これらもある面で日本語に支えられていると思います。日本人自身にそれがなかなかわからないのは、日本語で考えコミュニケーションしているからでしょう。
今頃のお昼前後の頂は蝶がたくさんやってきます。アゲハは優雅に飛ぶ貴婦人ですが、アオスジアゲハだけは別で、元気をもてあましている若者という印象を受けます。飛翔がするどく鋭角的で、あの青い模様がそれによくあい、「クール」ですね。
写真の白い花、とってもキレイですね!!
こういうことに出会うたびにISIS編集学校のことを思い出します。言葉の遊びをあそこでいろいろやりましたが、あれは言葉だけじゃなく、言葉を通じてあらゆる発想につながっていること、それだけ言葉というのは凄いのだということ、そういうことにいまさらながらに気づきます。
この花はご近所のシャクヤク畑のものです。そろそろシーズンは終りですが、最盛期はもう輝くばかりに美しかったですねぇ。