□◆□…優嵐歳時記(2678)…□◆□ 

  ゆるやかに陽を返しおり秋の海   優嵐

台風15号が西日本に接近しています。今日は秋の彼岸の入りですが、荒れたお天気になりそうです。昨日は、母の家の片付けの続きに行っていました。とても一日や二日で片付きません。単に捨ててしまうというなら仕事は速いのですが、いちいちどうするかの判断を仰がなくてはいけません。

片付けながら、今更ながらに驚くことも多く、親子とはいえ自分以外の人間のことは実際にはわからないものだ、と思いました。片付けの合間に、ついつい母が口にするのは亡くなった祖母や父に対する愚痴です。子どものころからさんざん聞かされて、「もう二度と聞きたくない」と何度も言っている
のにやっぱりその話なのです。

うんざりする一方、自分はこの人との関係において何を見せられているのだろう、と考えてみました。母は祖母や父の愚痴をくり返しくり返し言い続けるのですが、彼女自身はそこから何も学ばなかったのだろう、と思います。自分は被害者、自分は犠牲者、それだけです。

そして、今回の片付けをおこなっていて、母は自分で考え自分で決断するということから逃げてきたのではないか、と思いました。父は祖母の過保護の中で育ち、あからさまにそういう人でした。母はそれを非難していたのですが、そういう父や祖母の「被害者」という役割に自分を固定し、誰かを非難することによって、自分の存在を確認していたような節があります。

片づけられずに押し入れに大量に残っているものの中には、祖母が作ったり用意したりしたものもいくつかありました。祖母が亡くなってすでに四半世紀です。その間それに手をつけることもなく、何があるかすら知らず、自分が住んでいる家の二階の押入れの中をろくに見ることもなく過ごしてきた…。ちょっと考えられません。祖母、父、母それぞれが何か依存するものを求め、お互いがお互いに依存しあっていたのだと思います。

もし母が精神的に自立できている人であったならば、経済力はあったのですから、破綻している結婚生活にしがみつくことはなかったでしょう。依存するために破綻した結婚生活が必要だったのかもしれないとさえ思います。さらに、その破綻して終わってしまった結婚生活の残像に依存しているからこそ、今もその愚痴を飽きることなくくり返し続けるのです。母自身はそのようなことは露ほども自覚してはいませんが。

愚痴というのは「愚(おろか)痴(おろか)」とオロカが二つ並んでいます。愚痴をいえばストレスが解消されると思い込んでいる人がいるかもしれませんが、それは大きな誤りです。愚痴はオロカさにオロカさを加えることでしかなく、自己憐憫の堂々巡りを続けるだけです。自分がそこで見ているもの、体験していることから何を学ぶのか、生きることの意味はそれだけだ、と思います。

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