□◆□…優嵐歳時記(2737)…□◆□
冬晴れやマラソン準備整いし 優嵐
アートワークのために大阪へ行っていました。土曜日の雨があがり、快晴の朝になりました。JRは須磨・垂水あたりでは海岸沿いを走ります。日曜は神戸マラソンが行われ、垂水はその折り返し地点になっていたようです。ブルーのテープが沿道に張り巡らされていました。大勢の係員の方の姿も見えました。明石海峡大橋の間近を走りますから、絵になる場面だろうと思いました。
アートワークに関して、絵を描くことは重要なポイントですが、むしろその周辺で考えること、出会うことから教えられることが多いように思います。アートそのものは目的ではなく、きっかけです。それをきっかけに浮かび上がってきたものから、「何かに感づく」ことが大事ではないか、と思うのです。
言葉にすると隔靴掻痒のような感じで、適切な表現を見つけにくいのですが、その「何か」というのは「自分がこれまで予想していたような形では来ない」ようです。何か思いもかけないこと、論理的には説明がつかないのだけれど、何かを飛び越えてそのつながりが直感的にわかる、というような形でやってきます。ハウツー的なことを求めてしまいがちですが、ハウツーを追い求めている限り、感づくことは決してありません。
そういうものへの回路をもともと人間は持っていたのでしょうけれど、成長するに従って閉ざしてきたのではないか、と思います。もちろん、そういうものだけに行ってしまうと、困るのですが、閉ざしてしまうと自分の周りに檻を作る結果になります。
「自分がやりたいことに従う」「自分の意志を貫く」というのは素晴らしいことだ、と思われています。アートワークをやるようになって、これらのことは必ずしもそうとは言えない部分があると気づきました。特に、自分の意志や希望に反するものが目の前に立ち現れたとき、その良否を即座に判断せずにしばらく観察する、来たものをひとまず受け取ってみる、そういうことは大事です。
それは妥協とか敗北ではなく、エゴの枠を外していくことなのではないか、と思います。プロセスを信頼する、ということにも繋がるのかもしれません。プロセスを信頼していれば何が起ころうと「いまに在る」ことができるのではないでしょうか。

冬晴れやマラソン準備整いし 優嵐
アートワークのために大阪へ行っていました。土曜日の雨があがり、快晴の朝になりました。JRは須磨・垂水あたりでは海岸沿いを走ります。日曜は神戸マラソンが行われ、垂水はその折り返し地点になっていたようです。ブルーのテープが沿道に張り巡らされていました。大勢の係員の方の姿も見えました。明石海峡大橋の間近を走りますから、絵になる場面だろうと思いました。
アートワークに関して、絵を描くことは重要なポイントですが、むしろその周辺で考えること、出会うことから教えられることが多いように思います。アートそのものは目的ではなく、きっかけです。それをきっかけに浮かび上がってきたものから、「何かに感づく」ことが大事ではないか、と思うのです。
言葉にすると隔靴掻痒のような感じで、適切な表現を見つけにくいのですが、その「何か」というのは「自分がこれまで予想していたような形では来ない」ようです。何か思いもかけないこと、論理的には説明がつかないのだけれど、何かを飛び越えてそのつながりが直感的にわかる、というような形でやってきます。ハウツー的なことを求めてしまいがちですが、ハウツーを追い求めている限り、感づくことは決してありません。
そういうものへの回路をもともと人間は持っていたのでしょうけれど、成長するに従って閉ざしてきたのではないか、と思います。もちろん、そういうものだけに行ってしまうと、困るのですが、閉ざしてしまうと自分の周りに檻を作る結果になります。
「自分がやりたいことに従う」「自分の意志を貫く」というのは素晴らしいことだ、と思われています。アートワークをやるようになって、これらのことは必ずしもそうとは言えない部分があると気づきました。特に、自分の意志や希望に反するものが目の前に立ち現れたとき、その良否を即座に判断せずにしばらく観察する、来たものをひとまず受け取ってみる、そういうことは大事です。
それは妥協とか敗北ではなく、エゴの枠を外していくことなのではないか、と思います。プロセスを信頼する、ということにも繋がるのかもしれません。プロセスを信頼していれば何が起ころうと「いまに在る」ことができるのではないでしょうか。

コメント
コメント一覧 (4)
久し振りにコメントできて嬉しいです。
私も「いまに在る」ことは、とても重要だと思います。
そのために「プロセスを信頼する」のは、なかなか実行するのは難しいですが、意義あることなのかもしれません。
私は、「いまに在る」ことを、もっぱら瞑想と散歩を通じて得ようとしています。
優嵐さんの文章は哲学のようで、その本質はつかみきれませんが、「エゴの枠」を外していくことは、今の人類にとって、とても大切なことだと思います。
コメントにならないようなコメントですみません。
体調が思わしくないとのこと、大変ですね。季節の変わり目でもありますし、お大事にしてください。ほどほど、ボチボチ、じっくり、ゆっくりです。
私が増位山を散歩するのは瞑想の一種かもしれない、と思っています。瞑想というのは、じっと坐ってやるものとは限っていないようですから。あらゆることがやり方次第で瞑想になるかもしれません。絵を描くことも瞑想かもしれないな、と思っています。
7月にも同じ言葉を載せましたが、
攻殻機動隊で有名な押井守の言葉が、最も適切ですね。
「人は絶えず変化するものだし、君が今の君自身であろうとする執着は君を制約し続ける」
エゴとは、自分の過去のパターン、経験、判断、是非、善悪、習慣、規則、癖などなど。
自分らしくあろうとすればするほど、最も遠い自分になりますね。
昔は、山にこもったり、特別の場所、特別な時間で瞑想をしたりしていましたが、
現代においては、その方法はもはや古く、日常生活の中で、人と交流している時に瞑想状態になることが大切な事ですね。
もちろん、私もそんなことはできていませんが。(笑)
日曜日にはお世話になりました。
>君自身であろうとする執着は君を制約し続ける
これは、含蓄のある言葉ですね。一見もっともらしいこと、たとえば「自分らしくある」とか「自分に嘘をつかない」とかいう言葉が実は罠になる可能性があるようです。何ごとあれ、それをドグマにして依存するようになると、罠になるようですね。それが「自分の過去のパターン」へのとらわれになるからなのだろう、と思います。
それはすでに過ぎ去ったものであり、「いま」とは違います。過去を検索している限り「いま」にはいないとわかります。つい検索してしまう自分に気づいて「いま」に立ち戻るようにすればいいのでしょうね。