秋の暮
昨日は一日雨になるのかと思っていたら、午後三時ごろから突然雲が切れて晴れてきました。日暮れが早くなり、ちょっと遅めに昼寝をすると、もう夕暮れの気配になっています。

(1)
IMG_6104日曜のアートワークについて書きます。この日は絵葉書を使ったワークでした。まず最初に大量の(100枚以上はあったでしょう)異なる種類の絵葉書を並べてその中から一枚選びます。その絵葉書から思い浮かべる言葉を書いていき、その絵葉書を選んだ理由などについて発表します。私が選んだのはちょっと懐かしい雰囲気のある文房具店の淡彩画でした(1)。

この絵葉書を選んだのは、今自分が描いている絵のイメージに近かったからです。二年前からほぼ毎日絵を描いて別のブログに発表しています。描く対象も画材も描いていくうちに少しずつ変わっています。最初は身の回りの品物を描いていたのが、小物はほぼ描き尽くし、その後俳句からの影響で花を描くようになりました。この春夏はずっと花を描き、最初からの描画枚数が千枚を超えました。

秋も半ばを過ぎて花がしだいに少なくなり、今度は周りの建物に目を向けるようになっています。お寺や神社、歴史的な建物などを描き始め、その気持ちを持って街を見れば、姫路にはそういう建物がかなりたくさんあることに気づきました。この先は花と並行してしばらくこういう建物を描くつもりです。

子どものころ、自分の街なんてつまらないと思っていました。こんなところを抜け出してどこか素晴らしいところへ行きたい、ずっとそう思っていました。自分で外へ出かけていける身になると、日本や世界のいろいろなところへ行きました。仕事を変わった2005年以前まではそういう状態が続いていました。結果、「どこか素晴らしいところ」というのはどこにも無いと思います。日常をつまらないと思っているなら、どんなリゾート地であろうとそこに暮らせばそこが日常になるわけですから。

自分の街の建物を描くようになって、自分の血肉はこの風土が育んだもの、ここが自分のルーツ、自分の内側、自分の芯につながる場所は全世界のうちのどこでもなくここである、と感じるようになりました。多くの場合、人は外に何かを求めます。ここではないどこか、自分ではない誰か、それが「ナニカスバラシイモノ」をもたらしてくれると思うのです。しかし、そうではありません。

こういうことは、書物などで何度か読んだことはあります。しかし、なかなか実感できませんでした。それは理屈であって、恵まれた成功者だからそんなことがいえるんだと思っていました。しかし、今は実感としてそれがなんとなくわかります。絵を描き始めたのはある日突然、何のきっかけもありませんでした。ただ、今となっては描くことによって学んだことは多かったし、これからも多いだろうと思います。

(2)
IMG_6106二つ目のアートワークは同じく絵葉書を使ったもので、今度は裏返しにして絵柄を見えないようにして、どれか一枚を選ぶというものでした。それから受けた印象を書きました。私がこのとき手にしたのが白い波頭を見せて砕けようとする波を写したこのカードでした(2)。アートワークをやるようになって、やってくるものを信頼するということが体感できるようになりました。

必要なものは与えられるということ、自分であれこれ画策しなくてもそれが必要ならやってくるということです。それが現在の社会的な価値基準から見て望ましいものかそうでないものかは別です。自分のエゴは社会的価値基準としてスバラシイと思えるものを求めますが、そういうものと自分の本質にとって必要なものとはかなり違う場合があります。一見最悪だと思えるようなことが実はもっと長い目で見れば必要なことであったりします。