優嵐歳時記

俳句と季語。日本の自然と四季が生み出した美しい言葉を。

2008年09月

□◆□…優嵐歳時記(1577)…□◆□

  秋草やそれから下る夏目坂  優嵐

東京では椿山荘のそば処「無茶庵」で句会をしました。
庭園を散策しながら句を詠み、せいろそばと天麩羅の
昼食をいただきながらの句会でした。

このあと、夏目漱石の生誕と終焉の地をたずねました。
漱石は正岡子規の親友であり、その手ほどきを受けて
俳句にも親しんでいます。

晩年の9年間を過ごした自宅跡は小さな公園になって
います。ムラサキシキブが実をつけていました。ここで
代表作の多くが書かれました。近くには夏目坂という
通りがあります。これは区長をしていた漱石の父である
直克が名づけたものだそうです。

080909

□◆□…優嵐歳時記(1576)…□◆□

  旅立ちの朝つゆくさの青すがし  優嵐

週末、久しぶりに句会のために東京へ行ってきました。
姫路ではまだ稲刈りはほとんど始まっていませんが、
早稲の作付け面積が多い近江平野までくると、稲刈りの
最中の田、すでに刈田となっているものなど、いろいろ
ありました。

こちらは晴れていましたが、静岡県あたりでは曇っており
富士山はほとんど見えませんでした。昼間なのに新幹線の
車窓から富士山が見えないというのは、ちょっと損を
したような気になります。

□◆□…優嵐歳時記(1575)…□◆□

  秋の蝶ゆっくり翅を開閉す  優嵐

昼間、窓を開けているといろいろな昆虫が入ってきます。
蜂が多いですが、蝶がやってくることもあります。
カーテンにとまって口吻を伸ばし、何か探っています。

食べ物など何も無いと思うのですが、しばらくそうして
窓のそばにいました。蝉やトンボは入ってきたことが
ありません。飛ぶ高さの関係でしょうか。

□◆□…優嵐歳時記(1574)…□◆□

  朝晴れて柿の色づくころとなり  優嵐

駐車場の横にある柿が色づき始めています。まだ昼間は
蝉が鳴いていますが、そろそろ仲秋です。太陽の南中
高度が低くなって、日中の日差しが部屋に入ってくる
ようになりました。

今日は日露戦争が終結した日だということです。1905年
ですから、今から103年前。戦争の行方を決定づけたのは、
ロシア・バルチック艦隊との日本海海戦でした。

連合艦隊司令長官東郷平八郎が戦闘開始に先立って
旗艦「三笠」に掲げさせたZ旗の意味する「皇国ノ興廃、
コノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ」は、今もよく
知られています。

080905

□◆□…優嵐歳時記(1573)…□◆□

  松の影透かす夕空三日の月  優嵐

俳句では単に月といえば秋の月、特に陰暦八月の月を
さす約束になっています。このときの十五夜が名月です。
昔の人は名月を待ち、それに向かって太っていく月を
夜毎眺めて句を詠んだのでしょう。

テレビも夜間照明も無かった時代の月は、今よりずっと
存在感の大きな天体だったと思います。すでに想像する
ことも難しくなっていますけれど。

□◆□…優嵐歳時記(1572)…□◆□

  雷鳴を聞きつつ眠る秋の夜  優嵐

昨夜はテニスコートにいるときから俄か雨が降って
きました。砂入り人工芝のコートなので、少し濡れても
プレーにはそれほど支障はありません。

深夜になってから激しい雨になり、雷鳴も轟きました。
蒸し暑いと思っていたら雷か、と思いつつ眠りに
つきました。

かなり降ったらしく、今朝は市川の水が濁って水量が
増えています。

□◆□…優嵐歳時記(1571)…□◆□

  ただ一羽残る燕が青空へ  優嵐

久しぶりに燕を見ました。主な一団はすでに南へ去り、
それに遅れたのでしょうか。ただ、燕は鴨や白鳥などと
異なり、単独で渡るようです。渡りのときには、一日に
300km以上飛ぶ素晴らしい飛行能力を持っています。

日本で繁殖する燕の越冬地はマレー半島、フィリピン、
台湾、オーストラリアといわれています。南半球まで
飛んでいくのかと驚きます。途中にある島伝いに飛んで
いくのでしょう。

□◆□…優嵐歳時記(1570)…□◆□

  おもしろし二百十日の朝晴れて  優嵐

昨日は二百十日でした。このところぐずついた空模様が
続いていましたが、台風の要注意日とされるこの日は
朝から晴れて秋らしい青空が広がりました。

みんみん蝉も法師蝉もあとわずかの時間をしっかりと
鳴いていました。夜になると虫の音が聞こえるように
なっています。

今日も秋晴れの美しい一日です。少し暑さがぶり返して
いるようではありますが、風は爽やか、空は高く、いい
気候になってきました。

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