優嵐歳時記

俳句と季語。日本の自然と四季が生み出した美しい言葉を。

2009年06月

□◆□…優嵐歳時記(1866)…□◆□

  遣水に沿い半夏生草咲き初める   優嵐

東京の友人が関西へ来たついでに姫路まで足をのばしてくれました。今日はいっしょに姫路城と好古園へ行ってきました。雨模様でしたが、それがかえって暑さを抑えてくれ、庭園の散策を楽しむことができました。

半夏生草(はんげしょうそう)はドクダミ科の多年草で、湿った場所を好みます。葉は今頃になると茎先の2〜3枚が真っ白になり、まるで花びらのように見えます。それと同時に浅黄色の小花が密生した花穂を出します。

庭園を散歩したあと、大天守に登りました。姫路に住んでいて、お城を毎日のように見ていても、登閣するのは年に一度もあるかないかです。10月から大修理が始まり、2010年の4月には大天守を覆う素屋根が完成し、しばらく大天守の姿は見られなくなります。この機会に大天守に登ることができたのはありがたいことでした。

<合歓の花>
つのあるいきかたがしたい
ちゅうになって
めりこむ
げしくあつい
つのたいようのような

090630

□◆□…優嵐歳時記(1865)…□◆□

  合歓の花午後の陽ゆっくり巡りけり   優嵐

晴天が続いています。やはり空梅雨といえそうです。連日の雨という梅雨らしい空模様がありません。合歓の花が咲いています。この花も俳句を始めるまではほとんど気づかなかった花のひとつです。一度覚えれば、特徴のある花ですから遠くからでもすぐにそれとわかります。

何事もこういうもので知らなければ知らないままに過ぎていってしまうものです。見れども見えず、聞けども聞こえずというのは実体のあるものでもそのとおりなのです。車を買い換えると、急にその車種が目に付くようになるという話をきいたことがあります。心理的なフィルターがかかるひとつの例です。

私たちは世の中を決して客観的に見ることは出来ず、それぞれのフィルターを通して感じ取っています。私が感じ取っている世界はたったいまの私しか感じることができない現実です。恋愛の初期で頭がのぼせあがっているのを「恋の病」と表現したのは視野が極端に歪むこの典型かと思います。


<明易し>
んなにすきだったのは
っしてうそじゃない
っぱりこのひがやってくる
っかりさめてしまった
んじつはざんこく


090629

□◆□…優嵐歳時記(1864)…□◆□

  明易し部屋の中まで薔薇色に   優嵐

夜明けが早い時期です。日の出の位置がもっとも北よりになっており、太陽が顔を出すと、部屋の奥まで朝日の光があふれます。夕日の光は黄昏の色をしていますが、朝日の色は違いますね。同じ太陽なのに面白いです。

日本の色の名前に「東雲色(しののめいろ)」というのがあります。夜が明け始めるころの東の空のような色で、曙色とも呼ばれるそうです。外来語の色名で比較すると、フラミンゴ(フラミンゴの羽毛の色)に近いかな、と感じました。朱鷺色という名前の色も和色名にはあります。淡いごくわずかに紫がかったピンクです。

<夏燕>
つのもりを
れだってあるいた
かずはなれず
っきりおもいだすのは
っぽうしあわせだったこと


090628

□◆□…優嵐歳時記(1863)…□◆□ 

  朝の陽へすいっと飛びし夏燕   優嵐

燕の飛翔というのは、いつ見ても颯爽としています。あの自由自在ともいえる空中での動きは、素早く動いて虫を捕まえる必要があるからなのでしょうが、飛んでいることを楽しんでいるように見えて仕方がありません。「楽しむ」ということはどの程度の動物まで可能なことなんでしょう? 

ほ乳類の子どもは間違いなく楽しんで遊びますが、成獣になると遊ばなくなるそうです。人間は大人になっても一生楽しみ遊べる唯一のいきものでしょう。子どものころは遊びの天才であり、幸いにしてその能力は成人後もある程度は保たれます。遊べるというのは創造性と成長の余力を示す高度な能力なのかもしれません。

そういえば、笑うということもかなり高等な能力のようです。笑うというのがいったいどういう仕組みでできあがったものか。子どもは特によく笑いよく遊び、気分の切り替えも大人からは信じられないほど早くできます。ずっと子どもの部分を持ち続けられた方が精神衛生上もよさそうですね。

<紫陽花>
めつちのあわいに
んとよこたわる
いわいなるもの
としきものよ

090627

□◆□…優嵐歳時記(1862)…□◆□

  家々に紫陽花の色それぞれに   優嵐

梅雨の時期を代表する花といえばやはり紫陽花です。街中の住宅街でも見かけるのは珍しくありません。赤、青、紫と色合が微妙に異なり、それでいてあの独特の形は紫陽花と誰もがわかります。

俳句を始めるまでは花や鳥の名前などほとんど知りませんでした。花なら水仙、梅、桜、チューリップ、たんぽぽ、藤、薔薇、百合、紫陽花、向日葵、朝顔、菊くらいでしょうか。俳句によって、花や鳥の名前をいろいろ覚えることができました。名前を知ると、親近感が湧きます。

花が咲くとうれしいし、渡り鳥ならやってくるのを心待ちにします。いつでもどこにいても、これらを生涯楽しめるだろう、と思います。「本当に美しいものは全部無料だ」といったのは『森の生活』のヘンリー・デビッド・ソローでした。確かにそのとおりです。

<柿青葉>
ぜあおく
もちよくふく
したには
かにたたずみ
るかをのぞむ

090626

□◆□…優嵐歳時記(1861)…□◆□

  つばめ来て柿の青葉をめぐり飛ぶ   優嵐

雨は夜の間に降って、日中はいいお天気でした。部屋からお向かいの畑にある柿の木が見えます。青葉を茂らせ、つやつやと日光を反射しています。そのまわりへ何羽かの燕がやってきてぐるぐる旋回していました。今年巣立った幼鳥でしょうか。

彼らもあと二ヶ月あまりすれば、南へ旅立ちます。誰が教えるわけでもないのにちゃんと渡っていくというのは、凄いものだと思います。これも一種の知性である、と何かで読みました。知性というのは、脳で考える論理とか理屈だけではなく、肉体そのものや種そのものが持っている知性というのもある、と。

いちいち脳で意識しなくても臓器が動いてくれたり、ホルモンが分泌されたりするのも考えてみれば凄いことです。何日か前に食べた卵や納豆がいつの間にか「自分」になっていて、そのとき「自分」だったものは、もうどこか別の場所に移動しています。一年もたてば自分を構成していた分子はすっかり入れ替わっているといいます。絶え間ない新陳代謝によって生かされており、諸行無常=生きている、ということですね。

090625

□◆□…優嵐歳時記(1860)…□◆□

  澄みし水張られプールは子らを待つ   優嵐

雨が続くのかと思いきや、今日は一転して北の高気圧が張り出し梅雨前線を押し下げてからりとした過ごしやすい晴天になりました。南風が心地よく、窓から見える山や河原の緑が輝いていました。昨夜はまとまった雨量だったのか、川は朝方少し濁っていました。

そろそろプールのシーズンです。小学校の屋外プールは清掃を終り、真新しい水が張られています。温水プールが近頃では珍しくなくなりましたが、やはり真夏の屋外プールで泳ぐ気持ちよさは格別です。あのころは日焼けも全く気にならなかったな、と小学校時代を思い出します。

夕方ナイターテニスに出かけると、コートの上でもまだ西の空に夕焼けが残っていて雲が残照を浴び、輝いていました。まるでサギソウのように見える雲もありしばらく夕空を仰いで眺めていました。

<くちなし>
るしいとき
からづけてくれるもの
んだっていい
んじられるもの


090624

□◆□…優嵐歳時記(1859)…□◆□

  雨上がるくちなしの香の濃くありぬ  優嵐

湿度が高い中へくちなしの香りが濃厚に漂ってくるころになりました。くちなしは白い花の姿もきれいですが、やはりあの甘い香りが印象に残ります。花はすぐに黄色く変わります。あれはなぜなのでしょうか? 考えてみれば不思議なことというのはいっぱいあります。

空梅雨だと口にしたとたん雨が降るようになりました。言霊の力でしょうか。昨夜はまとまった雨が降り、今朝まで残っていました。日中は曇りがちで、今も雨が降りそうで降らないそういう梅雨らしい空模様です。こういう日が今週は続きそうです。

<夏至>
っこうは
ずくたるべし なつのよる
  (これだったら俳句ですね)

090623

□◆□…優嵐歳時記(1858)…□◆□ 

  夏至の空夕刻青く澄み渡る  優嵐

昨日は夏至でした。前夜の雨があがったものの、午前中はどんよりとしていました。蒸し暑く、梅雨らしいお天気といえます。大阪でアートセラピーの三回目に参加してきました。まだまだ要領がつかめていない感じです。あるテーマについて絵を描き、そのあとそれらの絵を見ながらお互いの経験をシェアしあいます。

他の参加者の方はだいたい抽象画というか、無意識から湧き出てくるイメージや手のおもむくまま自由に描いていらっしゃる感じですが、私はお題を聞いたときに浮かんだ具象の絵を描いています。無意識に思うまま描くというのが、まだどうもぴんとこない感じです。

帰りは晴れてきて、大阪駅で電車を待っていると、目の前にちぎれ雲を飛ばした青空が見えました。雨は少ないものの、こんなにからっと晴れた空も久しぶりで、新鮮な思いで空を見上げていました。

<空梅雨>
んぺきしゅぎと
っかんしゅぎを りょうりつ
きにむらくも
るしてしまおう


090622

□◆□…優嵐歳時記(1857)…□◆□ 

  空梅雨の夕焼け長く空にあり   優嵐

夜に入って雨が降り出したようです。昼間は曇っていたもののなかなか雨が落ちてきませんでした。日中はリクライニングチェアで井上靖の『化石』という小説を読んでいました。井上靖は好きな作家のひとりでかなり読んでいますが、これは初めて読む作品でした。

昭和40年ごろに新聞に連載されていた小説で、今読むと登場人物の年齢を10歳くらいあげて適当か、と思います。主人公の娘(20歳そこそこ)やマルセラン夫人(30歳前後?)にしても、今、同じ年齢の人はここまで大人じゃないよなと感じます。それだけ現代人は精神年齢が幼くなっているのかもしれません。

主人公の50代半ばの実業家は、ヨーロッパの旅行先で自分が不治の病に冒されていることを偶然知ってしまいます。その後の男の煩悶を描いて400ページ以上ある小説を読ませます。男は自分の「死」を同伴者にしてあらゆる場面でそれと語り合うのです。

実際には、誰もが「死」を同伴者として毎日を生きています。本人が意識していないだけのことです。不治の病を宣告されたりすると、初めて影にいた「死」がスポットライトを浴びます。主人公はそれによってようやく自分の来し方、行く末を思うのですが、本来は誰もがこのことをもっと考えておかなければならないのでしょう。

<夏帽子>
んでもないこと
まらないとおもえたこと
んとうに
つくしいことは
ばしばこのなかにある

090621

このページのトップヘ