優嵐歳時記

俳句と季語。日本の自然と四季が生み出した美しい言葉を。

2009年07月

□◆□…優嵐歳時記(1887)…□◆□

  風鈴も城の形の城下町   優嵐

アートセラピーの合間にいろいろ話もするのですが、先日少し話題に出た「初音ミク 」について。これは、ボーカロイドソフトと呼ばれるもので、コンピュータで歌詞をうたわせる一種の”楽器”です。どんな歌でもうたわせることができ、コロラトゥーラ・ソプラノの難曲、モーツァルトの歌劇『魔笛』の「夜の女王のアリア2」を歌っているものを見つけました。

本物のオペラ歌手が歌っている映像はもちろん数多くあり、その中で一番印象に残ったのがDiana Damrauのものでした。鑑賞という点からすれば、オペラ歌手にはまだ到底太刀打ちできませんが、この先の可能性ということを考えると、ボーカロイドソフトというのは全く新しい表現分野を開くほどのインパクトがあると感じます。

初音ミク


Diana Damrau


初音ミク自身が緑色の髪の16歳の少女という設定なので、彼女をアニメーションにして歌って踊るバーチャルライブをやらせることができ、動画投稿サイトにはそうした映像も山のように寄せられているとか。ボーカロイドソフトには他のキャラクターもあり、声のパターンが増えればこれらだけでアニメーション・オペラができそうです。

ということは、たったひとりでミュージカル映画を作ることも可能になるかもしれません。ひとりは無理でも、かつてなら莫大な資金と人数を集めて作った超大作ミュージカルのようなものを、わずか数人で作ることさえまんざら夢ではなくなりそうです。

□◆□…優嵐歳時記(1886)…□◆□

  連れ立ちて釣りの少年夏休み   優嵐

アートセラピーの四回目で大阪へ行ってきました。往きの電車の中で釣竿を手にした少年たちに会いました。須磨の海釣り公園にでも行くのでしょうか。彼らの表情に夏休みが始まった日の解放感をなつかしく思い出しました。

アートセラピーの今日のお題は対照的な二つでしたが、どちらも楽しめました。最初は透明水彩を使ってたっぷり水を含ませた水彩紙の上に一色で描いていくというものでした。描いているうちから偶然の効果で絵がどんどん変っていきます。自分が考えていたようにはならないし、描き終えた後もまだ水彩紙の上を絵具が流れて思いもかけない形へと変化します。変化していくことを刻々と見られたのが面白かったですね。

後半は対照的に静物画をパステルで模写しました。できるだけ忠実に模写しようと思ったら、よく見る必要があります。目と手を連動させて、画面に出ていない隠れている部分の形も想像しながら描いていきます。知らず知らず集中していて自分が絵を描くのが好きなんだな、と実感できました。


<あたかい驟雨>
あたたかい雨にうたれながら
夜の街を歩く
あたり一面水たまり
アスファルトは川のよう
水しぶきを跳ね飛ばして
どんどん歩く
髪を濡らした雨が額に流れる
ジーンズは腿に張り付いている
知らなかった
濡れて歩かなきゃ
雨があたたかいなんてわからない


090720

□◆□…優嵐歳時記(1885)…□◆□

  夏の朝何の香りに目覚めゆく   優嵐

真夏は窓を開けて眠ります。目が覚めてくるときというのは、不思議な感覚です。眠りを私は「別次元への一時的なトリップ」だと思っています。夢というのは、意識がそこで経験することを三次元的に再構成している状態だと思うのです。正夢とか夢枕に立つとか、夢のお告げとか不思議な現象が夢にはあります。

覚醒時にはあまり不思議な体験をしたことがありませんが、夢では何度かそういうことがあります。子どものころ正夢を見たことがありますし、何度か過去世か、と思われるような不思議な夢も見ました。夢というのは普通自分が自分として見るものでしょうが、そのときの夢というのは、自分が違う人になっているのがわかるんですね。

いずれも男性で、ひとりはギロチンで首を切られる人(フランス革命の時代でしょうか?)、もうひとりは非常に立派な体格(180cmは確実に超えている)の西洋中世あたりの軍隊の指揮官、さらにマシンガンを持つ兵士かゲリラというのもあって、いったいこれは何か、と思っていました。過去世はかなり荒っぽい人生だったようです。

<虫の名は>
冷やし中華を食べるわたしの前に
小さな虫が一匹
蛍光灯の下でふらふら歩き回っている
虫の名は知らない
名前は虫にとって何か意味があるだろうか
彼らは動き飛び生まれ死ぬ
けれどその内側に何かがあるのだろうか
自分を「じぶん」と自覚するような何かが

090719

□◆□…優嵐歳時記(1884)…□◆□

  遠い夜蚊帳の匂いの中に寝る  優嵐

幼い子どものころ、蚊帳の中で眠っていました。いまや「蚊帳の外」という言葉に名を残すばかりになっている蚊帳ですが、マラリアが蔓延しているアフリカや東南アジア地域では、低コストの蚊対策として現在も普及がはかられているそうです。

日本では電子蚊取りが普及して、蚊取り線香さえ今ではもうあまり見られなくなっています。電子蚊取りも今は電池式の無臭のものが普通で、どんどん進むのは携帯電話だけではないな、と驚くばかりです。

子どものころ身近にあったもので、今はもう探すことさえ難しいというものも少なくありません。技術革新の加速度が増し、ほんの10年ほど前に新製品として華々しく登場したもので、すでに遺物になっているものもあるでしょう。10年後に生活の中から消えているのはいったい何でしょうか?


小さな子どもだったとき
ふとんは深い海だった
体を反転させ底までもぐっていく
どんどんどんどん
わたしは魚になる人魚になる
たどりついたのは祖母の足先


090718

□◆□…優嵐歳時記(1883)…□◆□ 

  大南風吹きくる中をまっすぐに   優嵐

一昨日の午前中は大南風(おおみなみ)が吹いて爽快でした。オートバイに乗るとTシャツの間を風が吹きぬけていきます。昨日はまた少し雲って雨がぱらつく梅雨空にもどりました。

朝、窓を開けたら、前のお宅の奥さんが出勤されるところでした。ジーンズで低い塀をぐいとひとまたぎ。先日は別のお宅のご主人が訪問看護の看護師さんを見送ってステテコ姿で家の前に立っておられました。車が見えなくなるまで手を振っていらっしゃったのが印象に残っています。

アパートの高階に部屋があるため、見るともなく窓から外を眺めていると、いろいろな光景が飛び込んできます。さまざまな鳥や花、雲や空を見るのもいいですが、こうした人の世の営みが見えるのもまた一興です。

090717

□◆□…優嵐歳時記(1882)…□◆□

  百日草高き日輪静かなる   優嵐

関東甲信越が14日ごろに梅雨明けしたと発表になりました。姫路も昨日は朝から晴れ、強い南風が吹く気持ちのいいお天気でした。昼ごろにわか雨がありましたが、夕方には再び晴れ渡り、真夏というよりは秋を思わせるような澄みきった青空が広がりました。

ヒャクニチソウはメキシコ原産で、18世紀末にスペイン経由でヨーロッパに渡り、各国で品種改良がおこなわれました。日本にはアメリカ経由で江戸時代の末の文久二年(1862)に渡来しました。花の期間が長いためこの名がついています。

そのわけは、頭花にたくさんの舌状花がついていて、それが外側から順番に咲き進んでいくためです。また、ひとつひとつの花弁が厚く丈夫なこともあります。花のもちがよいので仏花としても重宝されています。


百日草が咲いた
百日紅が咲いた
南風は強く吹き続ける
風に向かってぼくは走る
空がこんなに澄んでいる
明日はきっぱり晴れるだろう

090716

□◆□…優嵐歳時記(1881)…□◆□  

  青柿や人みな旅の途中なり   優嵐

いのちというのは今生の人生だけで終わるものではなく、私たちは何度も転生して学び続ける存在だと思っています。輪廻を解脱するほどに成長した存在であっても、今度は衆生を助けるために「菩薩」となって生れてきます。誰が菩薩かはわからなくてもきっと誰かにとっては誰かが菩薩なのです。

だから、たとえ余命一ヶ月の病気の方であろうと、百歳の人であろうと、まだまだ旅は続くのだと思います。今生の人生を旅立ったとしても、「ご苦労さま」とあちらで迎えられ、しばらく疲れを癒したら再びさらに学ぶため、さらに誰かを救うためにこの世に帰ってきます。


暁の草原に立つ一本の木
彼はここで何百年も生きてきた
数えきれないほどの日の出と日の入りを見て
数限りない雨と嵐を体験した
多くの鳥と虫がしばらく休んでいった
彼といっしょに旅立った仲間たちはどうしただろう
ずっと遠くで同じように日の出を見ているものいる
ずいぶん前にふるさとへ帰ったものもいる
彼はちっとも心配していない
きっとまた会えることを知っているから

090715

□◆□…優嵐歳時記(1880)…□◆□

  夏の風受けし寝椅子に読書かな   優嵐

夏の極楽はなんといってもこれです。冬は炬燵で本を読み、夏は寝椅子で本を読み、春と秋は、どこででも本を読みます。このうちで、寝椅子での読書が一番好きですね。読書というのは、費用も時間もあまりかからず、それでいて自分の世界をもっとも広げてくれるものじゃないかなと思います。

ありとあらゆる疑似体験ができますし、新しい知識を仕入れるにはやはり読書です。子どものころはストーリー性のある物語、小説といった類のものに親しむことが多かったのですが、しだいにそういうものから離れ、近頃では小説的なものはめったに読まなくなりました。

学生の頃の一時期、ミステリーを山のように読んだ時期がありましたが、あるとき、ぱったりとそういうものを読まなくなりました。どうも自分の物事に対する取り組み方にこういうところがあるようです。理由というのがよくわからないのですが、熱中していたものからぱたっと離れてしまう…、嫌になるというのではないのですけれど。

<短夜>
るみるうちに
んせいはすぎゆく
なしみもよろこびも
きせぬできごとも

090714

□◆□…優嵐歳時記(1879)…□◆□

  短夜の水平線に日が昇る   優嵐

南九州が昨日梅雨明けした模様です。雨量は平年の55%しかなかったといいますから、盛夏の水不足が心配です。姫路は少し雲が出た時間帯もありましたが、おおむね晴れており、雲の様子からも梅雨明けが近いことを感じました。すっきり空が晴れるのは、気持ちがよくて好きですが、やはり雨量が少ないのが気になります。

今、心身問題に関する近年の画期的な著作といわれているディヴィッド・J・チャーマーズの『意識する心』を読んでいます。本文だけで435ページ、二段組の大作で、哲学的で難解な語句も多く、なかなか大変です。しかし、冒頭の「意識体験のカタログ」というところを読んで、人間の意識というのは凄いものだとあらためて思っています。

最初に色彩体験の描写が載っていて、著者は「はたして私はこの色彩体験をうまく伝えられるだろうか」と書いています。実に的確に書いてあり、ああ、わかるなあと感じますが、それでも色彩体験のすべてを言葉で伝えることはとうてい無理だということもまたわかります。自分自身も自分が内側で感じている「この感じ」を言葉にして誰かに伝えるのは本当に難しい、と思うからです。

意識のハードプロブレムとは、内側で体験している「この感じ」なのです。なぜこのような感じが生まれなければならないのか、ということ。そこからすべての芸術は生れてくる、と思いますし、もしこの感覚を失ったら、真に生きているとはいえず、いくら外側で人間的に応対してもそれはゾンビといえるかもしれません。人工知能が発達し、そのAIが「この感じ」を内側に持つ日がはたしてくるだろうか、と考えたりもします。


旅は続く
今日の行程は長かった
峠を越えた
途中で雨にあって少し濡れたけれど
それほど問題はなかった
海岸線に沿って歩いた
波の音が心地よかった
すれ違った人は東へ行くという
その町まではずいぶん遠い
よき旅を
さあお風呂に入って汗を流そう
ゆっくり休んでまた明日からの旅を

090713

□◆□…優嵐歳時記(1878)…□◆□

  一匹の蝉鳴く目覚めの朝となり   優嵐

蝉の声が聞こえるようになりました。まだ蝉時雨になるまでには少し時間がかかりそうです。盛夏を感じました。ひまわりも咲きそろい、梅雨明けをまつばかりです。雨は降りませんでしたが、今日も曇りがちのお天気でした。

昼間はリクライニングチェアで読書三昧でした。窓からの風が気持ちよく、時々うたたねをしたりしながら本を読むのが好きです。読書というのは、読めば読むほどさらに読みたい本が増えていきます。きっと読みたい本を全部読みつくすなんていうことはないでしょう。


歩むひと足ごとに花ひらく
君の足元の白蓮華
ひたすらに足をすすめる
君の足元の紅蓮華
その花の輝きを尊さを
君は知っているだろうか

090712

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