優嵐歳時記

俳句と季語。日本の自然と四季が生み出した美しい言葉を。

2009年10月

□◆□…優嵐歳時記(1979)…□◆□ 

  朝ごとに山の粧いあらたなり   優嵐

暖かい姫路でも山がそろそろ紅葉してきました。これを季語では「山粧う(やまよそおう)」と言います。紅葉や黄葉に彩られていく様子を錦繍を身にまとったさまに例えたものです。秋を現す女神を竜田姫といいます。春は佐保姫という女神が司るとされています。

夏と冬の女神もいらっしゃるようですがあまりポピュラーではありません。夏は筒姫、冬は白姫というらしいのですが、春と秋の華やかさに比べると存在感が薄く、季語にもとりあげられていません。

ナイターでテニスをしていたら、気温が下がってきているのがわかりました。コートのあちこちにカメムシがいて、カメムシが多い年は雪が多いといわれているという話をききました。今年は梅雨が長引いて真夏がほとんど無いような夏でしたが、果たして冬はどうなるのでしょうか。

<遠くで>
晩秋の朝
もう一杯珈琲が飲みたい
遠くで「君が代」の音
保育園の運動会が始まる

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□◆□…優嵐歳時記(1978)…□◆□

  詩をひとつ賜る雲や秋うらら   優嵐

「秋うらら」は「秋麗」とも書き、「しゅうれい」と詠む場合もあります。「うららか」は春の季語です。秋うららとは、秋のあたたかな日に春のうららかさを感じ取ったものです。

昨日は風がなく暖かでした。冬が来る前の穏かなひとときです。春との違いは午後になると素早く日が傾いて夕暮れが迫ってくるということでしょう。春のような長い夕暮れ時ののんびりした気分は秋にはありません。太陽の南中高度が随分低くなったことを部屋に差し込む午後の日差しから感じます。

あわただしく暮れていく秋の、その分澄んだ透明な大気は、それだけでまたかけがえのない魅力を持っています。


<新たな場所で>
オークションで競り落とされた品物を
丁寧に梱包して発送する
いっときはそれを使って新しい経験をしようと
勢い込んで買った品物たち

ごめんよ、十分活かしてあげられなかったね
でも、新しいご主人が見つかったよ

これからちょっと旅をして
その新しい人のもとへ行きなさい
きっとその人はきみを十分使いこなして
楽しみ、喜び、役立ててくれるだろう

きみも押入れや倉庫で眠っているよりは
ずっと楽しめるはずだよ

新しい場所で新しい人といい人生を
きみときみの新しいご主人のために
祈っているよ


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□◆□…優嵐歳時記(1977)…□◆□

  そぞろ寒扉しっかり閉めにけり  優嵐

「そぞろ寒」の”そぞろ”は、「そぞろ歩き」などに使われているのと同じ意味で、秋半ばを過ぎるころからなんとなく感じられてくる寒さをさします。本格的に寒いというほどではないけれど、秋の深まりを感じる言葉です。晴天ならまだ汗ばむほど暖かい日があったりもしますが、曇りの日などは気温があまり上がらず、こういう感じになります。

同様の季語に「秋寒」「やや寒」「うそ寒」「肌寒」などがあり、ほとんど使われることはないようですが、「かりがね寒き」という「雁が渡ってくるころの寒さ」を示す季語もあります。いずれも微妙に意味が異なり、日本語の豊かな語感を楽しめます。

ヤフーオークションに参加し始めて身の回りの不用品を探すようになったのですが、この背景には自分の飽きっぽさがあると気づきました。何かに興味を覚えるとまず手を出さずにはいられません。道具や入門書を揃え、とりあえずやってみます。熱中するほどに入れあげることもあり、かなり長く続くこともあります。

ところが、ある日ぱたっと止まってしまうことが珍しくありません。なぜか本人にもその理由がよくわからないのですが、気がつくとあれほど夢中になっていたのに、もうほとんど食指が動かない……、それで残るのが道具や書物です。道具を買い換えてそのとたん熱が冷めたりするとまっさらなまま残っています。俳句は比較的長く続いている珍しい部類の趣味です。


<欅>
いつの間にか欅が色づいていた
そのうえにある透明な青空

わたしは欅の足元に立って
しばらくそれを見上げていた

夕陽が欅黄葉を染めている
どこかでこれと同じ空を
見上げた記憶がある

なんだかとてもなつかしく
だけどそれがいつのことなのか
思い出せない

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□◆□…優嵐歳時記(1976)…□◆□

  蟷螂と石のベンチで見つめあう   優嵐

蟷螂(とうろう)とは、カマキリのことです。「蟷螂の斧(自分の非力を省みず強い相手に立ち向かうこと)」という慣用句がありますが、あの蟷螂です。逆三角形の頭に大きな目をつけ、よくよく見るとまるでエイリアンのようです。人間の大きさ程度まで拡大したら、まさにアブダクションされそうな…。

最近ヤフーオークションに出品するようになりました。以前からAmazonマーケットプレイスはよく利用していました。そこで、一歩踏み出してオークションです。マーケットプレイスとの違いは、オークションの場合、入札者が値段を決めていくということでしょう。

こういう場がインターネットでいろいろあるのはありがたいな、と思います。それほど買物をする方ではないと思っていましたが、ヤフーオークションに出品してみて初めて意外に不用なものを家の中に貯えていたのだと気づきました。自分がいらないと思っていたものに値段がつくというのもこういう場の面白さです。


<顔>
顔を洗って頬に触れた
生れてこのかた
何千回と洗ってきた自分の顔
しかし
自分の顔をほんとうに見たことはない

鏡で、写真で、同じ形のものは見ている
鏡の顔は左右逆転し
意識した視線でこちらを見返している
写真の顔は二次元の平面図

生きた自分をさらした三次元の私の顔を
見ることができるのは私以外の人

無防備なふとした表情の中に
自分という人間が
さらけ出されているだろう

恥ずかしいような
恐ろしいような
顔は自分のものであって
自分のものではないのかもしれない


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□◆□…優嵐歳時記(1975)…□◆□ 

  残る虫夜の深さに鳴きにけり  優嵐

いつの間にか虫の音も細ってきました。蝉の声は少し前から完全に昼間でも聞こえなくなり、虫の声のみになっていました。昨夜は夜がとても静かなのに気がつきました。虫の音もそろそろ終りです。暦のうえの秋はあと20日ほどです。

一般には晩秋は十一月という感覚でしょう。しかし、俳句を始めてから暦で季節を感じるようになりました。暦の上で十一月はもう初冬になります。寒暑からいうとやや早めですが、日差しはまさにそういう感じです。

Eva Cassidyの歌をYouTubeで集めて聴いています。いいです。歌いだしの一声で心をわしづかみにするような凄い力を持っています。大げさに聞こえるかもしれませんが、まさに神がかり。たとえばこの『テネシーワルツ』、これまでいろいろな歌手で聴きましたが、エヴァ・キャシディバージョンが私にはベストです。泣けてきてしまいます。

音楽や絵画といったものの魅力というのは、言葉にしきれないものがありますね。なぜ自分がそんなに感動するのか言葉にできない。感動のあまり言葉を失うといいますが、まさにそう。詩はそこをあえて言葉にしようと試みる芸術で、それはそれでまたいいのですが。

□◆□…優嵐歳時記(1974)…□◆□

  敗蓮にそれでも日差しさんさんと  優嵐

蓮はハス科の多年草で、日本からウスリー、中国、インドにかけてのアジアとオーストラリア北部に分布します。泥の中から水面に高く抜きん出て咲く蓮華は、古くから仏教の教えと結びついてそのシンボルとなってきました。夏に美しい花を咲かせた蓮はやがて実を結びます。

「蓮の実」は初秋の季語です。夏の間水を弾いて美しかった蓮の葉ですが、晩秋の今の時期ともなれば緑を失い、破れたり裂けたりして、哀れな雰囲気になります。しかし、これもあらゆるものの凋落する晩秋の風情のひとつです。「破れ蓮、敗蓮(やれはす)」はこの時期の蓮の葉のさまを表した季語です。


<かまきり>
頂で青丹色のかまきりに会った
かまきりは
その三角の頭から
はみ出しそうな瞳をこらして
じっと私を見つめた
何を伝えようとしているのだろう

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□◆□…優嵐歳時記(1973)…□◆□

  始まりし黄葉の上の空仰ぐ   優嵐

桜の紅葉はすでに一足先に終わっていますが、山々の紅葉はこれから本番です。紅葉でも黄葉でも「もみじ」といいます。このあたりは、日本語の便利さで、漢字で状態を示すことができます。「色葉」という季語もあります。

最近チャーハンをよく食べます。今年の初夏から初秋にかけてはなぜかグレープフルーツとバウムクーヘンに入れあげていたのですが、近頃はりんごとチャーハンになっています。チャーハンといっても凝ったものではなく、市販のチャーハンのもとをいろいろ試しているだけです。

卵一個と野菜をちょっと刻んで入れれば十分。通常、一度の食事でお茶碗一杯のご飯しか食べなかったのですが、チャーハンは二杯のご飯で作るよう指示してあるため、しばらくお米の消費量があがりそうです。米食促進に貢献するか?


<時がくれば>
春の訪れを告げて梅が開き
あらゆる花の目覚めを誘う
桜は春の終幕を飾って華やか

藤に夏の接近を知り
紫陽花に梅雨を見る
ひまわりが咲けば夏はもう終り

カンナに早い秋を感じ
コスモスは秋を彩る
紅葉は野山を染め

やがて木枯しが通り過ぎ
雪を連れて冬将軍がやってくる
裸木のかたわらで水仙が咲く頃
冬は帰り支度を始める


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□◆□…優嵐歳時記(1972)…□◆□

  若き父シャツ脱ぎ捨てて秋遊び   優嵐

三連休の間、増位山へ行くと、駐車場にキャンピングカーを止めてお子さんと遊んでいるお父さんの姿を見かけました。このところいいお天気が続き、行楽には絶好だったと思います。それでももう暦のうえでは晩秋に入ってきており、快晴でも普通に動いている分には汗をかくということはほとんどなくなりました。

「秋遊び」は春の「野遊び」に対する季語で、「秋の野遊び」「秋の山遊び」などとも言います。木の実の熟した里山へのピクニック、紅葉狩り、栗拾いなどをさします。アソブとは、神をまつることであり、「秋遊び」には収穫を祝う意味が含まれているようです。


<夢中>
夢中という言葉はおもしろい
現実の中にいるのに夢の中と書く
人の心が何かにとりつかれて
そこに引き込まれて
我を忘れている状態

ああそういば
無我夢中という言葉があった
我を無くして夢の中にあるということか
我とはそれほど
やっかいなものであるらしい

この世にある限り
我を捨て去ることはできない
生きていくために我が
必要だから

だけどそのために逆に
生きにくくなってしまう
なんという皮肉

水に溺れまいと必死でもがけば
体は沈み
力をぬいて水にまかせれば
浮かぶ


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□◆□…優嵐歳時記(1971)…□◆□ 

  歌声のさらに澄みゆく朝となる  優嵐

秋になると、大陸から移動性高気圧がやってきて、清浄な澄んだ空気が大地を覆います。秋の澄んだ空気のなかで木の葉のそよぎ、虫の声、鳥の声、あらゆるものの音が澄みとおりはっきり聞こえるようになります。「物の音澄む」とはその様子をあらわした季語です。

マイミクの方の日記でまたまた素晴らしいアーティストに出会いました。Eva Cassidy(エヴァ・キャシディ)です。YouTubeで歌を聴くなり魅了されました。彼女はアメリカのワシントンDCを中心に活躍しました。残念なことに96年に皮膚がんの一種メラノーマのため33歳で亡くなっており、世界的に知られるようになったのは亡くなった後のようです。

夭折するアーティストというのは、何か特別なものをその内に秘めていると彼女の歌を聴いていても思います。何かこの世を超越してしまったようなものを持っています。その歌を届けるためだけに神様がこの世に遣わした人、そういう感じです。

この「Songbird」は彼女が地方レーベルから発表した3枚のアルバムから選りすぐったベストアルバム『Songbird』(98.3.31)におさめられています。これからしばらく集中して聴きたいアーティストのひとりです。



<遣わされて>
ねえ、行ってくれるかい
あちらへ
きみが必要なんだ

たいへんなことはわかっているよ
でもね
むこうの人はきみを必要としている
きみを待ち望んでいる
心がささくれだっているから

あの人たちの痛む胸に注ぐ蜜を
手渡しておくよ
そんなに長くなくていいんだ
あちらはつらい場所だからね

□◆□…優嵐歳時記(1970)…□◆□

  澄む秋の静けさにひとり座りおり   優嵐

●法然上人二十五番霊場第三番札所十輪寺を訪ねる(2)
十輪寺のまわりも屋台が巡行して、祭太鼓の音が響いていました。本堂の中に入ることができました。灯は点っていましたが人影はなく、座椅子に腰掛けてしばらくその静寂を楽しんでいました。目の前に法然上人の「宝瓶の御影」のレプリカがあり、その上の欄間は龍や鳳凰を象った豪華なものです。

遠くから太鼓の音が聞こえてくるだけであとは静かなこの空間でのひととき、非常にリラックスできました。まるで法然上人の懐でゆったりくつろいでいるような感覚です。いつまでもこうしていたいほどでしたが、そういうわけにもいきません。観光化された大寺院では恐らくこういう感じを味わうことは難しいでしょう。

今までいろいろなところへ行っていますが、強く印象に残っている場所というのは誰もいなかったところという共通点があります。ひとりでその空間に入って、そこの霊というのか、場所のオーラとでもいうのかそういものに包まれたときが最高です。自分とその場所が溶け合う、そんな感覚があります。


<静寂>
あなたがわたしを呼んだ
わたしがあなたを呼んだのか

あなたはおだやかで
ひたすら大きい

あなたに抱かれていると
ふるさとへ帰ったようだ

何も心配しなくていい
わたしはいつもここにいる
ずっと見守っている

その声が聞こえる
そしてわたしは涙ぐんでしまうのだ


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